大井川通信

大井川あたりの事ども

いづこより礫うちけむ夏木立 与謝蕪村 1769

詩歌を読む読書会で、蕪村(1716-1783)の句集が取り上げられることになった。子どものころから蕪村が好きで、背伸びして全集第一巻の全句集を購入した僕にはありがたい機会だ。けれど課題図書である角川ソフィア文庫版句集所収の1000句を検討する余裕はとてもない。

それで手持ちの解説本を読んで句を選ぶことにした。まず水原秋櫻子の『蕪村秀句』(1963)の約200句に目を通す。実作者らしい思い切った本音の解説が気持ちいいが、選句にはやや癖がある印象だ。学生時代市民図書館で出会った本だが、再刊が出た時に買い直したことを思い出しながら、久しぶりに読み通す。

これだけでは物足りなかったので、学燈文庫の暉峻康孝著『近世俳句』(1959)で、蕪村の100句ほどにさっと目を通して『蕪村秀句』に漏れていた句から気に入ったものを選び出した。こちらの方がオーソドックスな選句という印象。

ところが、この作業で僕なりに選んだ句が、蕪村の全2850句中1000句を収録している課題図書に見つからないのだ。タイトルに掲げた句以外でも、独歩の『武蔵野』にも引用された「山は暮れて野は黄昏の薄かな」も載っていない。作品を選ぶということが、かなり恣意的な作業とならざるをえないことを実感する。古典を評価する視点が、時代によって移り変わっているのも理由だろう。

特にタイトルの句は、自分が選ぶ3句に入れようと思うほど、今回発見していいと思った句だ。若いころからなじんだものばかりがよく思えるなかで貴重な作品だったのだ。

夏の林の中を一人で歩いていると、不意に幹を強くはじく音が響いて、木の葉が舞い落ちてくる。とっさに誰かが石の礫(ツブテ)を投げ込んだのかと疑う。しかし、そんないたずらをしそうな子供は見当たらないが、悪意のある攻撃者がどこかに潜んでいる可能性はなくはない。あるいはもっと神秘的な現象なのだろうか。

あらためて指摘されると、こういうことがあってもおかしくないというリアリティが感じられる。そしてこの現実の巧みな切り取り方は、現代人の感覚にもつながっているような気がする。

たとえば詩人の伊藤桂一に竹林を擬人法で描いた「風景」という作品があるが、それにも通じるような感触なのだ。