大井川通信

大井川あたりの事ども

『井月句集』 復本一郎編 2012

僕が漂泊の俳人井月(せいげつ  1822-1887)の事を知ったのは、芥川龍之介の短編『庭』のなかでの印象的な姿によってだったと思う。その後、つげ義春の漫画『無能の人』の中のエピソードで取り上げられたのには驚いた。

岩波文庫の句集を買ったのは、そんな経緯からぜひ読んでみたいと思ったからなのだが、歯が立たなかった。今回読書会の課題図書になったのを幸い、長年の課題を果たすことができた。

ただ正直なところ、1300近い収録句を読み通すのが大変で、苦痛を感じるほどだった。おそらく現代人としての僕が俳句に求めているところと、井月の俳句のそれとが全くことなっているのだ。つげ義春の漫画の題材にもなった参考篇の『奇行逸話』あたりと読み合わせることで、かろうじて句のありようを味わうことができるような気がする。

僕らが俳句に求めるものは、ある情景なり感情なりが、独自の解像度でクリアカットされることだろう。予想外のシーンにピタリと焦点があう快感を求めて読んでいるのに、井月の俳句は、まるでわざと焦点をはずしているかのようにピンボケ続きなのだ。

例外的に情景や感情にピントがあった句をいくつか拾うことはできるが、特別にいい句というわけではないし、井月の本領が発揮されているとも思えない。

 

錦木(にしきぎ)や百夜車(ももよぐるま)の雪の道

よき水に豆腐切り込む暑さかな

手元から日の暮れ行くや凧(いかのぼり)

陽炎(かげろう)に貫目(かんめ)ひかれな力石(ちからいし)

 

一句目は、思いを寄せる女の家に錦木(村落の習俗)を立てに行く男の雪の通い路に、小野小町の元に通ったという平安朝の百夜車を幻想したもの。井月らしからぬあでやかさだ。四句目は、カゲロウにゆらめいて重量を奪われるな、と力だめし用の石に呼びかけたもの。

 

「餅も酒も皆新米の手柄かな」のような、茫洋として作為のない句柄が井月らしいのだろう。「千両、千両」という井月の口癖が聞こえてくるようだ。