大井川通信

大井川あたりの事ども

作文の書き手として

僕は作文の書き手だ。ある時期から、そう自覚するようになった。作文は多くの読者を持たない。持つ必要はないし、持つこともできない。だから多くの人に読んでもらうための条件を満たす必要はない。有名な作品や事象を扱わなくていいし、大向こうの受けを狙わなくてもいい。自分だけの小さなこだわりに誠実であれば良い。

それでは、私的なメモとの違いとは何か。あるいは私信との違いは。私的なメモは、具体的な読み手を持たないし、私信は、特定の相手に読んでもらうためのものだろう。作文は、最低限「複数の読者」を想定した文章だ。実際に読者に恵まれるかどうかはともかく、特定の相手との二者関係に閉ざされることなく、第三者へと開かれるべく普遍性の芽を宿している。

そんな作文の効用を実感できる機会は、時々だけれどもある。安部さんが著作の発表したとき、僕が短い批評文を書いて、安部さんは「初めての作家論」だと喜んでくれた。結果的に、その文章は唯一の安部論という栄誉に浴したのだが、そうなったのは僕が「作文」の書き手だったからだと思う。制度の中には、安部論を求められる場所はないからだ。

また安部さん主宰の美術プロジェクトのなかで、祖父の安部正弘論を発表することもできた。安部さん逝去後に二人は仲が悪かったということを知ったが、祖父と孫との両者を論じた人間としても、なるほどという気がする。

現代美術の感想を書いた「作文」が、美術作家との間でやり取りを生むこともあった。今回も、外田さんの作品をめぐって、実りのある応答ができたような気がする。

数年前、読書会のメンバーの舞踏家の演出作品を見る機会があって、素人なりに精一杯取り組んで論じたことがある。その時は喜ばれたが、当然ながら社交辞令が含まれていると思っていた。今回たまたま、ご本人からいろいろな場面で読み返して力を得ているという話を聞けてうれしかった。そういう評価を受けたのも、「作文」というジャンルのメリットが大きいような気がする。

僕が地元での作文を集大成した「大井川ガイドブック(概要版)」に、知人から丁寧なコメントを送ってもらった。作文が作文を生む。これも得難い、貴重な経験である。

 

 

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