大井川通信

大井川あたりの事ども

財布をもって追いかける

外国人の動画に、日本で財布を落とすと、それを拾った日本人は必ず落とし主に返すということを検証するものがあった。実際に、動画の主が人込みでわざと財布を落とすと、それを目撃した日本人は、素早く拾って落とし主を追いかける。まさに百発百中だ。

まあ、そうなんだろうけれど、なんか釈然としない気分になった。日本人の正直さとか真面目さとかが理由になるのかもしれないが、そうした伝統文化やお家芸はだいぶ衰弱しているはずだ。映像を見ると、若い人たちが多いのだが、そこでも100パーセントというのはなんか変だ。

今日、いつもの書店脇のカフェで、長時間本を読んだり、勉強したりした。コーヒーをお代りして5時間近くいたと思う。夕方過ぎて、隣りの席で高校生風の男子が漫画を読み出した。コーヒーの注文をしないで席だけ座るというマナー違反で、僕はこうした他人のアラが気になる器の小さな人間だから、内心反感を持っていた。

やがて彼が席を立ったのでそちらを振り向くと、ソファーに黒い財布が置いたままだ。ポケットから落ちたのだろう。するとその瞬間、そもそもの反感なんかなんのその、僕は飛び上がるように席をたつと、財布をひろい、男子学生のあとを追いかけたのだ。

学生は照れ笑いをしながら、小声でお礼を言った。僕はいいことをしたと思い、彼の印象も良いものに一変していた。

ほとんど条件反射といっていいほどの素早さと必死さだったといっていい。あの動画の日本人たちとまったく同じだ。何の逡巡の余地もない、自分の内側から突き上げてくるような衝動だった。これは、自分の財布を落とした時に、それを取りに戻るときの感覚と同じようなものだと感じた。

つまり、その瞬間、自他の意識は消えていたのだ。自他未分離の次元での根本の態度だから、世代を超えても変わり様のない根幹の部分なのだろう。一度他者を分け隔てから、その他者に対してどう振るまうか、という倫理や道徳の話なら、人や世代によって揺れやブレが生じてもおかしくないのだが、どうやらそれ以前の問題だったのだ。なるほど外国人が不思議がるはずだと思う。