大井川通信

大井川あたりの事ども

かっちぇワナの思い出

村山田に入って確かめると、電車から見えなかった庚申塔は、土手の陰のところにしっかり残っていた。電車や車の窓からの一瞥がいかにあてにならないかがわかった気がする。ただうれしかったのはそれだけではない。

鉄道の線路をくぐる小さなトンネルをでたあたりで、足元がややおぼつかない感じで歩いている年配の男性がいたので、庚申塔のことを尋ねてみたのだ。その男性は庚申塔のことは興味がなかったようだが、僕が地元の歴史を調べていることに驚いている様子だった。

今まで、こんな人に会ったことがないという。それで、村山田の昔の話をいろいろと話してくれた。

男性はヨシタケさんといい、昭和23年(1948年)生まれ。社会人となって地元を離れたが、定年をきっかけに故郷に戻ったという。お父さんが用山(モチヤマ)出身で実家によく行ったというので、村山田から用山に抜ける山道のことが話題になる。あの道は歩きにくいけれどまだ通ることはできますよ、と僕。

ヨシタケさんが子供の頃は、まだ里山が日の里団地へと生まれ変わるずっと以前になる。かっちぇ罠をつくって、「かっちぇ」を捕まえて風呂釜で焼いて食べたそうだ。かっちぇは鳩よりも細い鳥で、ヨシタケさんは、「うまかった、うまかった」とその味を懐かしむ。

僕は、うろおぼえの知識で、かっちぇとはツグミのことだろうと思ったから、その特徴を話すとどうやら間違いはなさそうだった。秋から翌年の春まで姿を見せるということ(ヨシタケさんは、かっちぇが渡り鳥であることは知らなかった)、白い胸には茶色い縦じまがはいっていること等。

冬には雪で滑り台を作って遊んだそうだ。団地ができてからは住宅街との交流もなく、つまらなくなったとしみじみと話してくれる。里山の団地化に当たっては、村山田にもそれなりの利得があったのだろうが、幼少期の遊び場を奪われたヨシタケさんには、住宅団地の存在を素直に受け入れることはできないのだろう。

別れ際に、こんな話ができたのは久しぶりだ、と喜んでくれる。つまらない話ならふだんしているけれど、とヨシタケさん。やはり長年記憶にしまったきた話こそが本当に大切な宝物なのだろう。

僕もうれしくなって、本当はここで引き返すはずだったのが、さらなる遠方に足を延ばすことにする。