大井川通信

大井川あたりの事ども

『知覚の呪縛』を読む(その1 読むこと)2007.4.20報告

【読書会の経験から】

学生時代から、友人との読書会、勉強会が好きだった。特別な本好きではなかったから、その時々に関わった会への参加がなかったら、卒業後に本を読み続けることはできなかっただろう。この読書会に参加してからも、10年が経つ。一般の読書会には、様々な人々が様々な動機で参加するから、いやでも(自分が)本を読むこと自体の意味を反省せざるを得なかった。

読書会では、まずは課題図書の内容に沿った報告が行われ、そのあと、各人の感想やそれをめぐる議論が行われる。その後半の発言や議論が、どれくらい課題図書と密接に関わるものであるかで、会の満足度が違ってくることに気づくようになった。

参加者の知識の多寡、読書や経験の分野は様々だ。課題図書から離れて、個人の知識や経験を語る発言が先行すると、他の参加者からの応答が難しくなる。結果的に、その場では検証不可能な知識や経験談が飛び交い、肝心の本自体が埋没してしまう。

確かに参加者の知識や経験は、読書会自体にとっても大切な資源である。その資源を、本をいかに読むのか、という一点に活かし、集中させることができれば、参加者の共有財産にすることができるだろう。せっかく課題図書という共通のフィールド、誰もが対等に読みを競い合える腕試しの場所があるのだから。

【素人読みの可能性】

『知覚の呪縛』は、一人の精神科医(渡辺哲夫)が、一人の精神分裂病者と10年にわたって向き合い、立ちすくみ、交流したことの報告である。著者の言葉に忠実に付き従い、著者が再現、再構成するSという病者の世界を理解していくことが、読みの出発となる。

著者は、一般に著作の対象について特権的な場所に立っているものだが、この本については、著者と読み手との距離は絶望的なまでに遠い気がする。著者は、対面するSの世界にたじろぐが、読み手は著者の言葉を通じてのみ、その精神病棟の一室での困難を追体験するしかない。仮に私が、精神病理に関心があり、分裂病に関する著書を何冊か読んでいたとしても、その程度の予備知識はかえって読みの障害となるだろう。

現代は文化相対主義の時代であり、私たちは現代思想の初歩として、言葉や文化の違いによって世界が全く別のものとなりうるという知識を叩きこまれている。難解な述語さえ読み飛ばせば、『知覚の呪縛』を読み通すのにさほど時間はかからないし、Sという分裂病者の世界の特徴を頭に入れることも容易である。難しいのは、著者やSが直面する困難を、困難そのものとして受け止めることだ。

そのためには、いったんは忠実な読解から退却し、自分の知識や経験の場所、生活の領土に帰らなければならない。そこで、この本の言葉に反応する鉱脈を探り当て、鉱石を切り出し、自前の武器を練り上げる。そうして今度は、この本の核心に向かって、思い切って直截に飛び込んでいく。見当違いの突撃もあるだろうが、そんな向こう見ずな跳躍こそが、素人読みの魅力や本領であると信じよう。

【生きることとしての読むこと】

『知覚の呪縛』を読んで、私の胸にまず迫ってきたのは、Sの言葉であり態度だった。Sは、まったくわけのわからない世界に落ち込み、暴風雨のような事態に巻き込まれながら、自身の言葉で、比類なく正確に世界をつかんでいる。この本が、著者の晦渋な思弁にもかかわらず、決して不明瞭でないのは、Sの言葉の正確さ、明快さによる。しかも彼女は、その認識に基づいて、「とぐろ巻き」という、世界を読み替える技法を編み出している。そんなSの態度に促されるように、著者もまた、彼女に向き合う一人の他者として、Sの世界をなんとか読み取ろうと試みる。

多かれ少なかれ私たちも、未知の世界の中で、その意味を読み解きつつ歩みを進めている。そこでは、生きることを根底から支えるのは、読むことなのだ。おまえはどれほど真剣におまえの世界を読み取っているのか、という厳粛な問いをこの本から突きつけられた気がする。