大井川通信

大井川あたりの事ども

『日本の新興宗教』 高木宏夫 1959

岩波新書青版(1949-1977)の一冊で近頃再刊されたもの。新宗教に多少興味がある僕でも、岩波新書にこんな本があるとは知らなかった。新興宗教という呼び名自体も今では古びているが、内容も明らかに一時代前のもので、現代では考えられないような視点から書かれている。

ただ、その分、敗戦後まもなくの時代状況がよくわかるし、新宗教への危機感のためかその実態に対しても、正面から本腰を入れて分析している。

その時代状況とは何か。戦後の混乱期に新宗教が百花繚乱の活況を呈し、その中から創価学会が巨大勢力となって、選挙で大きな結果を残したのが、この本の書かれた1959年のことだ。敗戦後14年ということを今の時代に置き換えると、敗戦が2010年前後、つまり東日本大震災のころの距離感ということになる。当時新宗教を語ることは、今でいえばスマホなどネット社会の到来について語るようなリアルさを持っていたのだ。

著者は、新宗教を「大衆思想運動」という視角から見る。敗戦でとん挫したのは「天皇制」という上からの大衆思想運動だった。戦後は、「革新陣営」が率いる労働運動が、社会科学に基づく唯一の真理として存在している、という当時の知識人の常識的な見解に著者もよっている。にもかかわらず、新宗教が大衆を吸引するのはなぜなのか。

新宗教は、「世界観」だけでなく、それに基づく「人生観」と「生活規律」を信者に与えるための合理的な組織と体制をもっているというのが著者の見立てだ。一方、革新陣営と労働運動は、正しい世界観はあっても、それを個人の生活に結び付けるような手段も組織ももっていない。

僕は80年代以降の左翼の凋落の歴史しか知らないが、すでに50年代において左翼運動の中身が(大衆思想運動という観点からは)スカスカだったことを知って、驚いた。これでは衰退の運命は必然ではないか。著者の目配りは広く、やまびこ学校にまで言及しているし、左翼が活かしきれなかった「サークル」がむしろ新宗教のなかで機能していることを見抜いている。

著者によると、革新陣営の前面には企業側の生産性向上運動が立ちふさがり、背後からは新宗教がおそいかかっているというダイナミックな構図となる。なるほどこれはその後30年くらいは有効な図式だったろう。しかし、少なくとも今世紀に入ってからは、企業主義も新宗教も労働運動も凋落し、およそ大衆思想運動が成立しがたい局面に入っている。

この本の扉には、立正佼成会の本部の「法座」(サークル)で、輪になって膝を突き合わせて真剣に話を聞く若い婦人たちの真剣な表情の写真が使われている。僕の母親と同じくらいの世代で、サザエさんみたいな当時の髪型がなつかしい。ここには、当時の社会を補完する熱気のある現場が間違いなくあったのだ。時代が変わっても、そのことを忘れてはならないと思う。