大井川通信

大井川あたりの事ども

『美と共同体と東大闘争』 三島由紀夫vs東大全共闘 1969

読書会の準備で手に取った角川文庫。確か何年か前にこの時のフィルムが公開されて話題になったと思う。

ざっと読んでの印象批評。とにかく東大全共闘の面々の言葉と思想のありようがひどい。当時流行していたマルクスをベースにした疑似哲学的な思想を、自分たちの乏しい実体験と未熟な思想体験に即して、振り回しているだけだ。

今では解読することすら困難だし、仮に解読できたところで、現在の状況に切り込んで役に立つようなものは何一つないだろう。そう断言できてしまうような無内容さなのだ。

三島由紀夫の方は、論理的かつ親切に自分の問題意識をかたって、なんとか相手の論理につなげようとしている。後書きにあるように「了解不可能な質問と砂漠のような観念語の羅列の中でだんだんに募ってくる神経的な疲労」を受けてまでそうしたのは、当時の学生運動の影響力の大きさのゆえだろう。この対論が考えさせるのは、三島の思想というより、東大全共闘の言葉の奇妙なまでの矮小さの方だ。

少し前に漱石の評論を読んで、100年以上前の言葉のリアリティに驚いた。今は50年より少し前の学生運動の思想の空疎さに驚いている。

僕も60年代や70年代の思想の言葉を読んで育った世代だから、当時は、彼らの思想こそ最新の普遍的な課題をとらえたもので、明治の漱石の思想などは近代化の渦中のローカルな課題を考えたものにすぎないと誤解していた。

ところが今あらてめて読むと、漱石のとらえた(とらわれた)問題はほとんど手つかずのままに残っている。一方60年代の新左翼思想はそれにかすりもしていない。

西洋と東洋のはざまの「小国」日本の文化の問題。思想を語る言葉と生活言語との乖離の問題。学生運動家たちは、それらをすっとばして、普遍的で先端の問題に触れていると錯覚している。この錯覚は70年代、80年代を経てバブル崩壊の頃まで継続したのかもしれない。

漱石的課題が再び浮上するのは、失われた30年を経過する中でのことなのだろう。