大井川通信

大井川あたりの事ども

他人のカートを戻す

もともと思想や評論が好きだったから、その関連で宗教に興味をもっていた。歳をとって生死のことを意識しだすと、さらに宗教の方に軸足に移す必要を感じるようになった。ただ、もっと卑俗なレベルでいえば「老害」対策だ。

老化して身体的、精神的なレベルが落ちてくると、自分勝手で感情丸出しのふるまいに抑えが効かなくなってくる。世間的も気にしなくなるし、アンガーマネジメントの知的な理解もさして役にはたたない。

祈り、願いの全身的な行為である「宗教」こそ、細胞レベルで人のふるまいの矯正ができるだろう。そうあたりをつけていたが、さっそくその効用を感じる場面があった。

僕の日常でのつまらない「正義感」の一つに、スーパーの駐車場でカートを置きっぱなしにする人が許せない、というものがある。狭い駐車場にカートが残されると、駐車が難しくなるし、気づかずに車を傷つけてしまう人も出てくるだろう。それがわかりながら放置するのはとんでもない自己中だ、というわけだ。

先日、とうとう置き去りの現行犯を見つけて、きつく注意してしまった。今までさすがに口に出したことはなかったのに。

ところが、今回、自分がカートの商品を車に入れ終わったタイミングで、何台か離れた車でまさにカートを置き去りにしそうな人を発見した。僕は空のカートを押しながらその人に近づき、「もっていきましょうか」と声をかける。

その人がどぎまぎした様子を見せたのは、今までこんな声かけを受けたことがなかったからかもしれないし、あるいは、カートを置き去りにするのを見抜かれた決まりの悪さからかもしれない。

とにかく僕は、にこやかに彼からカートを受け取ると、二台のカートを連結させてカート置き場に戻したのだった。この一連のふるまいを、事前の意図や計画なしにほとんど無意識におこなってしまったのだ。

これはどう考えても、「自他の幸せを願う」という慈愛の精神に感化されたものとしか言いようがない。もちろん、こうした理想論は誰でも知っているが、実際には実行するのは難しい。宗教では、これを「神仏の願い」としていったん超越化し、それと自己とを一体化させるというプロセス(祈りの日常化)を通じて、個人の行動原理に落とし込むことができるのだ。

 

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