大井川通信

大井川あたりの事ども

ほめられたい

僕の今の職場では、目の前の机に高校の物理教師の同僚が働いている。ふだん雑談や冗談を言い合ったりする仲だが、理系に関する知識を尋ねたりすることもある。

僕は小学生の頃、近所に住む姉の友達の板橋さんから教えられて、現代教養文庫の『面白い物理学』(ペレリマン著)を読んで、その面白さに夢中になった。当時のソ連の科学の入門書の翻訳で、異国風の挿絵がふんだんにあり、初歩の力学の解説とともに、永久機関や錯覚についての詳しい説明もあった。

だから、そのころから「物理学」にあこがれがあって、高校になって正式の教科で「物理」を学ぶことを楽しみにしていた記憶がある。それはこの本の影響だけではない。

僕が子どもの頃は、60年代から70年代初めにかけての高度成長の時代で、科学技術が華々しいオーラをまとっていた時代だった。背伸びして「相対性理論」の入門書などに手を出したりしたが、その物理教師に聞いてみると、今時の高校生には、物理学の理論に対するあこがれなどはほとんどないらしい。

ところで、今朝出勤して、同僚の顔を見て、昨晩みた夢を思い出した。

僕は、物理学の勉強をしている。なんとか一年分の内容をすべて独学した。正式な教科書は手に入らなかったから、チャート式の参考書を基本書にして勉強しとおしたのだ。これで同僚の物理教師に自慢できる、と思った・・・・

しかし実際には何も学習していないのだから、自慢しようもない。仕方なく夢の話をしたら、チャート式の物理はメジャーじゃないとダメを押されてしまった。

しかし、なんでこんな夢をみたのだろう。

この社会で平凡な優等生として生きてきた人間には、「ほめられたい」「評価されたい」という基本姿勢がしみついているようだ。なにかを学びたいという初発の動機は自分の内側にあっても、その学びを継続させるためには、根っからの承認欲望を刺激する仕掛けが必要なのだ。

いくら僕に「物理学」への隠されたあこがれがあったとしても、今春から同僚になった物理教師の存在なしに僕がこんな夢を見ることはなかっただろう。