大井川通信

大井川あたりの事ども

「自他未分」と「現状優先」

今まで、他人の落とし物を拾ってあげることや、知人から借りた本やお金を返さないこと等、日常生活のなかでの僕たちの謎のふるまいについて、断続的に考察を続けてきた。

西欧由来の法体系(自他はそれぞれ別の独立した主体であり、それぞれモノを絶対的に支配できる所有権をもっている)と、その法体系を受けて形作られた現代人の常識からすると謎に見えるということだから、これを理解するには別種の概念化が必要だ。

ここで暫定的な仮説を提示しておこう。

他人のお財布も自分のお財布と同様に拾ってあげる。しかし、他人から借りた本やお金を平気で自分のものにしてしまう。この二つの正負の事実からは、自分と他者がくっきりと分かれておらず、「自他未分」の状態がベースにあることがわかる。

自他未分は、「無私」「無他」ということだから、前者が表に出ると聖人のごときふるまいとなり、後者が表にでると他者をないがしろにする傍若無人のふるまいとなる。

「自他未分」がベースにあると、主体とか他者、あるいは双方の合意などが正義の基軸となることができない。個人の自立を前提とする倫理や道徳が問題となることもない。すると残されたものはあいまいな「現状」ということになり、現状を優先することが正義ということになる。

落とし主から落とし物が分離したのなら、それを元に戻すのが「現状回復」という正義になる。一方、借りた本やお金が自分のもとにとどまりそれが「現状」化すると、その状態を維持すること(現状維持)が正義となり、「自他未分」の感覚から、モノやお金を他者に返すという動機が消えてしまうのだ。

こう考えて見ると、僕たちの行動の基底に、「自他未分」「現状優先」を原理とする層がかなり分厚くあって、それが僕たちの無意識のふるまいをコントロールしているといえそうだ。

ひと昔前に「世間論」が流行って、日本には社会ではなく世間しかないという言い方がなされたが、それ以上の深まりはなかったように思う。世間を気にするなという前に、なぜ我々が世間に捕らわれるか、その仕組みを理解しておかないといけないだろう。この二つの概念は、そのための武器となるような気がする。