大井川通信

大井川あたりの事ども

『子どもの道くさ』 水月昭道 2006

道くさは、「道草」だ。寄り道は「する」だけど、道草ならやはり「食う」だろう。しかし、道草をなぜ食べるのだろう。昔の子どもは、野草を食べていたのかしらん。

とここで、辞書の助けで、道草を食うのは馬であることに気づく。馬があたりまえの移動手段、運搬手段であった時代の言葉なのだ。僕の想像力の及ばないイメージだったと納得する。

今から15年前のブックレットだが、著者は、通学路の安全が至上命題となっている世間の風潮(これは今ますます強くなっている)に対して、道草が子どもの成長にどれほど大切かを力説する。地域の視線を「疑い」から「信頼」へと転換させて、子どもが安心して道草できる地域社会を取り戻そうという提言には、素直に共感できる。

著者は子どもの道草を調査し、観察できた250回あまりの道草を九つのタイプに分類する。これが面白い。「反応型」は「歩いている→見つける→触る(蹴る)」だし、「注目型」は「歩いている→見つける→注目する」だ。「歩いている→道のデザインに規則性のなる所にさしかかる→そこを規則的に歩く」という「規則型」は、言われてみればなるほどと思える子どものふるまいだ。点字ブロックや白線の上を落ちないように歩いたり。

僕は小学校低学年の頃、通学路の四つ角で、遠く突き当りに見えるビルの建設が気になっていた記憶がある。これは「注目型」の道草だったと思い当たるが、前だけを見て歩く大人なら、気づくこともなかっただろう。

著者はこうした子どもの道草に寄り添って分析しながら、子どもは大人とはまったく違う振る舞いをする生き物なのだと形容する。ただし、これにはちょっと異論がある。僕が今、大井川歩きでやっていることは、子どもの道草そのままなのだ。

「歩いている→きっかけとなることがある→交流する」は「交流型」に分類されるが、僕は散歩の途中出会った人と話をして、交流を深めてきた。自分たちだけの抜け道を歩くのが子どもの楽しみだというが、僕も街の中でアパートの裏の近道を歩いたり、里山の中の抜け道を見つけたりするのが何よりの楽しみだ。鳥も虫も建物も地形も気になって、あちこち立ちどまってばかりである。

子どもだけでなく、大人にも道草が必要なのだ。大人たちこそ道草をたのしめる世の中になってほしいと思う。

  

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