大井川通信

大井川あたりの事ども

永福町商店街を歩く

父親には姉が二人いて、長女は赤坂、次女は永福町に住んでいた。それぞれ赤坂のおばさん、永福町のおばさんと呼んでいて、親しくしていた。どちらも商店街で小さな店を構え、赤坂は金物屋、永福町は古物商を営んでいた。

永福町のおばさんは、家もちかく、父に連れられてよくお店にも行っていた。古物商だから金回りがよく、よくおこずかいをくれるのがうれしかった。両親も何かと援助してもらっているようだった。おばさんは大柄で豪快な人柄で、家に遊びに来た時暑いのか上半身裸になって話していたことがある。父親がさすがに何か着てくれと頼んでいた。

おばさんは60代のうちに病気で世を去り、おじさんはその後店をたたんで再婚し青森に越してすぐに亡くなったと聞いている。永福町には、子どもの頃父親に連れられて行って以来、訪ねたことはない。

下北沢で芝居を観たあと、井之頭線でいくつか先の永福町の駅に降りてみようと思ったのはほんの気まぐれだった。駅はビルになっていて面影はなかったが、線路をまたぐ商店街の道はすぐにわかった。南に進んですぐのところにお店はあったはずだが、今は当時の賑わいはない。しばらく歩くと、大木のある鎮守の杜があってお参りをする。

永福町のおじさんおばさんには僕よりだいぶ年長の娘さんがいて、近くの神社の夜祭に連れて行ってもらった思い出があったのだ。境内の様子は当時の記憶のままだった。小さな社務所で奥さんと話をすると、商店街の古物商のおじさんのことを覚えていて、当時としては大柄でさばけた人だったと懐かしがってくれた。やはり地域の神社は土地の記憶装置としての役割があるようだ。

おじさんは子ども心にも面白い人で大きな声で笑い、商売で手に入れた明治時代の地券をくれたこともあり、これは今も大切に持っている。神社の奥さんからは、古道具屋のあった正確な場所を聞くこともできた。

今あるダンススクールの二軒先にあったとのこと。ガラス越しに明るくレッスン風景の見えるダンススクールを見つけて、その隣の隣の住宅をながめ感慨にふけっていると、ふと気づいたことがある。なんとその隣に別のダンススクールがあったのだ。これで正確な場所はわからなくなってしまったが、まあこの辺りということでよしとしよう。

僕は、永福稲荷の茅の輪(ちのわ)をかたどったお守りを手にして、永福町の商店街を後にした。