月に一度の映写技師吉田さんとの勉強会。吉田さんは、急遽入ったイベントの仕事のため、東京との間を片道十数時間の運転で、台風のさなか、配送できなくなった機材を自ら載せて往復したばかりという。同世代にして、そのバイタリティに感心する。
今回のレジュメは、9月11日の「文芸評論の時代」の記事を本論にして、9月26日のカポーティ―の小説『ミリアム』の感想、9月27日の美術展「とはすかたり」の感想、10月11日の「触るということ」についての考察という記事三本を各論として配置することにした。
題して、「評論で読む」。一か月に書き散らした記事のなかから、後付けでテーマをみつけて勉強会の題材にするというやり方が、どうにか軌道にのってきた。これなら、勉強会の準備の手間もかからないし、自分の振り返りにも役立つ。
僕たちの世代が、評論の時代を経験したおかげで、一定の解読装置をさしはさんでモノを見たり考えたりしている、という「本論」の仮説が正しいのだとしたら、僕自身が無意識に書いた文章のなかにもそれを読み取れるはず、という思いつきだ。
各論の初めの小題は「小説を読む」。美少女ミリアムを主人公の心理的な反映としてでなく、独立した妖怪として読もうとした背景には、たぶん現代評論での他者論の影響がある。自分の似姿に満足するのではなく異質な他者の手触りを求めるという発想だ。
各論の二つ目は「美術を読む」。現代美術家のふるまいを、実質を大胆に切り捨てて形式を追求することで新鮮な表現を生むと解釈しているのは、現代思想における形式化という論点を参考にしているだろう。社会の構造や仕組みを形式化することで、その外部に出られるという発想。
各論の最後は「生活を読む」。触ることへの価値づけは、あきらかに視覚優位を問う近代批判や心身二元論を批判する身体論を前提にしている。
80年代前半の現代思想のブームのさなかに学生時代を送ったけれども、僕はやがて思想家の名前を口にしたり、その文章を引用したりすることが、気恥ずかしくてできなくなってしまった。もともと素養がなかったということもあるし、不器用に社会にもまれているうちに思想の言葉の無力さを思い知ったということもある。
それでもこんなふうに振り返ってみると、柄谷行人そのままじゃないか、と思う。それだけ、若いころの僕に彼の存在は大きかった。自分の楽屋裏をのぞいて、ちょっと興ざめしてしまう。
ただ、吉田さんは、「生活を読む」というところでレベルの違いや飛躍があるのではないか、と言ってくれた。確かに、ここが今の僕の主戦場だ。この戦場では、現代評論の言葉は、方向を示すくらいのことしかしてくれない。自分の足で歩き回り、自分の内側から気づきが生まれるのを待つしかないのだ。