大井川通信

大井川あたりの事ども

古書『深尾正治の手記』の諸短編を読む

椎名麟三は、僕に新鮮な読書体験を与えてくれる作家だ。古本屋で投げ売りされているような日本文学全集の一巻を初めて読み切ったのは椎名だったし、戦後初期のシミだらけの古本で小説を読んだのも、この本が初めてだった。新刊が流通していないのが原因だが。

表題作を読むのが目的だったが、せっかくなので残りの5つの短編にも目を通してみた。掘り出し物のような作品と出会いたかったが、残念ながら彼の代表作からはだいぶ見劣りがする。ただ、この作品集に何度か登場するちょっと不思議なキャラクターが気になった。

いつもニコニコ笑っていて、周囲にさかわらず現状追随的である。他者にやさしいようでいて、突如エキセントリックなふるまいをする。

『深尾正治の手記』の木賃宿を経営する老人は、旅館の人間関係が破綻していくなかで、突然重次郎を刺し殺し出奔する。『不安』の柴崎は、隣人のたえ子にプレゼントをするなど好意を示す一方、脈絡なくアパートの自室で自殺を図る。『喪失のなかに』の濱田は、空気のような存在の小役人であるけれども、喫茶店のマダムへの負い目と執着の果てに命を落とす。

これらのキャラクターの造形は、作者自身の共感がないためか、とってつけたようで成功しているとはいえない。ただ、作者にとって脅威であるような、現状を薄笑いで受け入れている庶民の実像を描こうとしたことは間違いないだろう。ただ彼ら庶民に強いられた虚無は(著者自身がモデルとなった共産党員のようには)そうかんたんに尻尾を出すとは思えないのだ。