20年前以上に出版された宗教社会学の入門書を、今回ようやく読了した。何度か手にとっていたし、2010年に読み始めた日付が書き込まれているが、その時は挫折してしまったのだろう。この間、廃棄本にしようと思ったことさえある。すでに文庫化され安価に手に入るようになってしまった。
橋爪と大澤との宗教対談本を読み終えたあとでさえ、大学の講義のレジュメをまとめた本書はきっと面白くないだろうと思っていた。二人の軽妙で大胆なやり取りだからこその面白さである気がしていたのだ。
ところが。読んでみたら、こちらもやたらに面白かったのだ。対談本で触れていないことも体系だてて丁寧に説明されている。10年間の講義を下敷きにしていると後書にあるが、それは伊達ではない。
ところで。橋爪・大澤の宗教対談本について、ネット上の素人の書評の中に本書には間違いが多いと批判をしているものがあって、うんざりしたのでここに反論めいたことを書いてみたい。よけいなお世話かもしれないけれど。
僕が今になってこの本を味わうことができたのは、宗教とは何かという問いを自分なりに考えてきた経験がそれなりに蓄積されたためだろう。その問いなしに読めば、本書も退屈で「不正確な」知識の羅列にすぎないことになる。
橋爪本が出色なのは、そういう生きた宗教をめぐる問いに対して、ぶっちゃけそれはこういうことなんだという答え(本質)を単純化して示す見事さにある。しかし実際に問いを持っていない者には、ぶっちゃけることの意味がわからない。辞書的な定義と比べて、それが不正確であると得意げに宣言する。わかりやすくぶっちゃけているのだから、宗教事典の定義と合わないのは当たり前だ。
そのぶっちゃけ話を一つここで紹介すると、たとえば日本で人気の浄土真宗の教え(阿弥陀信仰)について、それが一神教の変形したものがルーツだと喝破する。一神教なら神が万能だから、人間の信仰は「他力」となるのは当たり前だ。しかし、神ならぬ阿弥陀仏は、極楽浄土(阿弥陀仏の仏国土)では万能ではあっても、この世界では万能ではない。まして仏教は、基本各自の修行で成仏するという「自力」が基本である。そうすると、この世界における浄土真宗は、他力を原則としつつも自力に頼るようなあいまいな部分を残すことになる。なにやらそこに深淵な解釈が加えられるのだが、ぶっちゃければそういうことだ。
こういうぶっちゃけ話は、僕が浄土真宗の聞法道場に参加するなかで感じてきた素直な疑問に答えてくれるものだ。真宗の入門書や解説書を読んでもわかることではない。本当に捨てなくてよかった。