大井川通信

大井川あたりの事ども

『魂を考える』 池田晶子 1999

ふと書棚のこの本が気になってカバンに入れて持ち出し、朝のファミレスで読んでみた。ページを開くのは20年ぶりくらいだろう。

池田晶子(1960-2006)は、僕と同世代の哲学系の書き手だ。といっても研究者ではなく、哲学の思考そのものを生きた人といっていい。1990年代後半の哲学ブーム(もはや覚えている人は少ないだろうが『ソフィーの世界』のベストセラーがきっかけになったもの)の頃、その安直な潮流を批判する発言をしていて、僕には共感できる書き手だった。

振り返ってみると、僕はその頃、哲学ブームに一役買った竹田青嗣の博多での読者グループに参加していて、彼の話を定期的に少人数で聞く機会があった。ただ竹田さんの発言はどこか的を外しているように思えて、素直には聞けなかった。(その十数年前は、現代思想ブームの立役者だった今村先生の近くに偶然いた。一素人読者としてはツキをもっていたのかもしれない)

池田晶子永井均の本は、竹田さんら哲学思想の解説者たちが、いかに「哲学する」こととかけ離れた場所にいるかを指摘して、僕の違和感の理由を腑に落ちるように説明してくれた。その時の恩がある。美人で、後に早逝した。死を少しも恐れないことを広言していたから、どんな風に死を迎えたのか気になっていた。

この本は、読みかけだったけれど、何か大切なことが書かれているのではないかという予感があって、いつか読み直したいと気になっていたものだ。

〈私〉という唯一無二の形式の問題やそれを〈魂〉ととらえることなど、思考の方向性は、哲学者の永井均と同じであるように思えた。ただ、この論理をていねいに根気強く説き続けることでは、永井均には及ばない感じがする。気短で性急なところがあり、論理に飛躍があってわかりにくいところも多いが、ずばっと急所をつく鋭さがある。

永井均にはない良さは、小林秀雄埴谷雄高を論じたり、ユングを評価したりするような幅の広さと良い意味のブレだ。厳密でないだけ、僕がいま考えていることとつながるような文章を見出すこともできる。いくつか引用してみよう。

「我々がそれぞれ別々の〈魂〉である限り、じつは我々は皆、互いに別々の世界に生きていると言っていい。たまたま共通する部分が多い同士で「この世界」すなわち「社会」を作っているだけであって、共通する部分が全くない〈魂〉がいても、少しもおかしくない。逆に、それぞれ別々の〈魂〉たちを全包括するような性質の〈魂〉がいるだろうことも、予想に難くない。もっともこれはかなり〈神〉の概念に近くなる」(101頁)

「『おそらく』、宇宙は、善の極と悪の極の二極からなる。歴史、すなわち魂の群れの移動は、善の極と悪の極の間を大きく振れ繰り返しながら、しかし、螺旋状に上昇して、最終的には善を目指す。善を善と知っていて、それを欲しないということはないからである」(123頁)

「生死とは驚くべき非論理なのである。非論理であるにもかかわらず、げんに、宇宙は、存在する。それなら、げんに存在する宇宙を、論理によらずに現象的に『感じとる』ことが卑小なる人類に開かれ得る唯一の自由ということになる」(139頁)

「犬とは、犬の服を着た魂である。そして、人間とは、人間の服を着た魂である」(166頁)

「生とか死とか思われているものは、そう思われているほど確かなものではじつはない。自分と宇宙というものも、そう思われているほど別のものではなく、あんがい同じようなものなのである」(199頁)

著者の略歴を見ていたら、彼女の忌日がちょうど今日2月23日であることに驚く。人の世には大小の偶然があふれている。