大井川通信

大井川あたりの事ども

行橋詣で(2024年3月)

以前は特急を行橋で降りそびれたことがあったが、今回は、別路線にいく電車に乗り間違えてしまい、気づいたら見慣れない山間部を走っている。よく見たら古びたワンマン車両だ。のどかな無人駅で降りて折り返しを待つことになった。

日曜日の商店街は相変わらず人がいないが、ひな祭りのイベントのチラシがはってある。ちょうど昨年の今頃妻のリクエストで商店街のお店を訪れて、たまたま路地の奥にある教会を発見したのだった。その発端がなければ、今のおつきあいはなかった。

春の訪れにふさわしく、桜の花弁が二輪浮かんだワインをお持ちする。教会長さんたちの宿泊研修会で泊まったという川棚のお茶菓子を出していただく。

大矢先生のお話の動画を視聴し、いただいた文章を読んで、教祖の御理解集を丹念に読み始めた話をする。大矢先生の本気に気押さ大矢「おかげ」や「取次」について教祖の言葉にさかのぼって了解する必要を感じたためだ。大矢先生の信念は、異国の環境に鍛えられたものという推測には同意していただける。著名な学者と大矢先生たちとの討議記録については、井手先生は、自分がふだん向き合っている信奉者たちにかける言葉とは、別の次元にあると話される。しかしどちらも大切なのだと。

大村さんのメールにあった金光教信奉者のお祖父さんのエピソードを朗読する。お祖父さんが大工さんだったことから、自然の素材に丁寧に向き合う職人さんの仕事ぶりに話がうつり、古建築ファンの僕が宮大工の真似事ができたエピソードを話す。

大谷大学のコンウェル先生の話に浄土真宗の核心をみた思いがしたこと、しかし、個人的な苦難に対して、「無量寿阿弥陀仏)のお育て」としてのみ了解し受け止めることには無理があり、我々凡人には「願い」が肯定されるプロセスが必要ではないかという持論を話す。金光教の「取次」の価値について生硬な持論を口走ってしまったが、僕にとっての考えどころだ。