大井川通信

大井川あたりの事ども

『蜜柑』と『檸檬』

読書会の課題図書で、梶井基次郎(1901-1932)の短編集を読んだ。学生時代、愛読していたつもりだったが、『檸檬』以外はあまり記憶に残っておらず、今読んでもピンとはこない。『檸檬』は別格という感じがするが、もし梶井が『檸檬』を書いていなかったら、それ以外の作品だけで、今にいたる盛名を得ていたのだろうか。

檸檬』を解読するために、芥川龍之介(1892-1927)の『蜜柑』(1919)と比較することを、今回ふと思いついた。両作品とも、初めにやたらに憂鬱な「私」が登場して、自分本位な理屈を述べ立てた上で、小さな果物の存在に触れて束の間の救済を得る、というよく似た構成の短編である。

『蜜柑』では、芥川と思しき主人公が、同じ車両に乗り合わせたみすぼらしい田舎娘がトンネル内で無理に汽車の窓を開けたことに腹を立てるが、それは奉公先に向かう娘が、見送りの弟たちにミカンを投げるためだったというもの。夕景に美しく輝くミカンは、いこじな芥川が田舎娘の中の人間性に出会うきっかけとなっている。小品だが、知識人と庶民の対立と克服という近代的なテーマを背景にもっているといっていい。

中学の初めの頃だろうか、芥川の少年向けの短編集を手に入れた時、父親が手に取ってこの作品を朗読してくれた記憶がある。父親は、芥川では他に『庭』が好きだといっていた。

一方、梶井の『檸檬』は、果物屋で発見してから丸善で手放すところまで、レモンは個人の世界から一歩も外へは出ていない。爆弾という見立ても無価値で気まぐれなものだ。しかし梶井は、レモンの全く個人的で個性的な愛玩方法を、小説というメディアで提案することで、現在にいたるまで文学青年やオタク系読者の共感を呼ぶことに成功している。

梶井の『檸檬』は、みすぼらしい無価値なものに美を見出し、個人的な偏愛を表現に値するものとした点で、後世の情報/消費社会やポストモダンという時代を先取りしていたのかもしれない。芥川の『蜜柑』が忘れられた作品になる一方で、『檸檬』の人気が未だに高いのも(『檸檬』を読む読書会の参加希望者は最高記録とのこと)このあたりに理由がある気がする。

 

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表札をかえる

実家を取り壊すことになって、いくらか実家の備品を持ってきたけれど、その中に表札がある。父親が知人に彫ってもらった木の表札で、おそらく40年くらいは玄関にかけられていた。ずっと両親の面倒を見てくれて実家の管理をしていた姉だけれども、この表札には無頓着で、僕が持ち帰ってもいいという。石垣りんの詩ではないが、表札などを気にするのは、男の見栄や家父長意識によるものかもしれない。

生垣が虫に食われてだめになってしまったので、自分の家の外回りの手直しをすることになった。玄関にはスチール製の大き目の門柱があって、まるで石塔のような武骨な外観なのは少し気に入っている。「表札」はステンレスの板にローマ字のシールを貼っただけのシンプルなものだったが、気分転換に別のものに替えることにした。

カタログを見ていたら、気に入ったものが見つかった。今さら漢字で苗字を強調する気にはならない。ローマ字書きの上部に、From〇〇〇〇と建築年が入ったデザインである。僕の場合、この住宅街の「草分け」として転入した1997年がそこに入るだろう。

大井川歩きで旧集落を歩くと、寺社はもちろん、町角の石塔にも建立の年号が刻まれている。それを使って「元号ビンゴ」なんて遊びをしたこともあるくらいだ。一方、新しい住宅街を歩くと、住居表示はくどいほどあるが、歴史を示す年号などは全く見当たらない。空間的な差異には敏感だが、歴史的な関係は一切切り捨てられているわけだろう。里山がいつ崩されていつ街が開かれたのか、知る手掛かりはない。

それで僕は、せめて記念の年号が刻まれた表札にかけ替えることにした。本物の石塔ではないから、門柱がこの先どれくらい「保存」されるかは定かでないけれども。

 

 

民博の展示室にて

万博記念公園に出向いた際に、国立民族学博物館(通称は民博)によって展示室を見学した。この手の地味な展示に関しては、飽きっぽくこらえ性の無い僕は、もともと苦手だ。世界の地理や文化についての関心も知識も薄っぺらだし、その上太陽の塔内外で相当歩き回って、足も痛い。

しかし、その割には、世界の地域別の広大な展示室を順路通り歩いて、膨大な展示物にざっと目を通すことができた。そこに収集されたモノたちの表情が、やはり面白かったのだ。地域ごとのおおまかな共通性と、微細な差異と。日本の展示では、見たこともないお祭りの祭具に驚いたりもした。

民博では、初代館長の梅棹忠夫のイメージが強かったが、太陽の塔について調べて、万博での岡本太郎の活躍が、後の民博の設立に貢献したことを初めて知った。

しかし僕が民博に寄りたかったのは、今村仁司先生が、民博の共同研究に社会哲学者として関わっていたことを知っていたからだ。著書『現代思想のキイ・ワード』では、「儀礼」の項目で、民博の様子がいくらか描写されてる。

薄暗い展示室を抜けて建物の外に出ると、二月とは思えない穏やかな陽気だ。太陽の塔の丸い背中が輝いてみえる。僕は、恩師の足跡に触れることができた気がして、うれしかった。

梅棹忠夫が編者となった『文明の生態史観はいま』を読むと、梅棹が自説への廣松渉の批判的論考を評価し歓迎している記述がある。廣松が梅棹を民博に訪ねた際には、「学説をことにするとはいえ、10年の知己のようにたのしくかたりあった」という。「廣松氏はまことにまじめな気持ちのよい紳士であった」とも。

廣松さんは、いかにもという慇懃な振る舞いだが、梅棹忠夫は、さすがに度量がひろい。いずれにしろ、思想界の巨人同士のこんな交流もあったことを知り、民博に寄ってあらためてよかったと思った。この「ご利益」で、僕の考えも少しは前に進んでくれたらいいのだが。


『やねのいえ』 てづかたかはる+てづかゆい 2014

昨年末、ある会合で、建築家手塚貴晴さんの講演を聞いた。手塚さんは、真冬なのに青いTシャツ姿で、いつもそれで通しているのだという。ちなみに奥さんの由比さんは赤い色で、たしか二人のお子さんにも固定したイメージカラーがあるとのことだった。講演の初めに家族の写真を見せて、その説明でいつもは笑いを取るところなのだろうけれど、年配の真面目な聴講者が多くて、しんとしているのもおかしかった。

ちなみに、カラーセラピストによると、服装は前夜に決めておくよりも、朝その日の心身の状態にあわせて選ぶのがいいのだそうだ。色に敏感になることで、色彩の力を効果的に使って豊かに生きることができる。この説が正しいなら、手塚家の今後がちょっと心配だ。

「屋根の家」は手塚夫妻の出世作で、施主の注文から、平屋の大屋根の上に室内から自由に上り下りして、家族がそこで日向ぼっこしたり、遊んだり、食事したりできるように設計された家だ。この絵本は、「屋根の家」での型破りの暮らしを、子どもむけに楽しく解説している。

手塚さんは、屋根に傾きがあるのがいいという。傾いているから、人間同志向き合って座ることができない。傾斜の下がった方向に足を向けて、隣り合って座ることになる。視線の先には景色が見えるから、沈黙で気まずくなったり、無理に話題を探したりする必要がない。同じ理由で、初デートの時は河原の傾斜地に座るのがいいと言って、手塚さんはいたずらっぽく笑う。

この話を聞いて、僕は八木重吉の短い詩を思い出した。

「わたしのまちがいだった/わたしの まちがいだった/こうして 草にすわれば それがわかる」(「草に すわる」)

詩人のすわった草原は、きっと平らな土地だったのだろう。草に囲まれて、自然と心は内面へと向かい、悔恨をえぐりだす。もしこの土地が傾いていたのなら、心は遠くの風景に誘い出されて、山並みのあたりで気持ちよく我を忘れていたかもしれない。

 

大本教と八龍神社(その2)

大本教と大和良作、栗原白嶺との関係を簡単な年表にしてみよう。

・大正10年(1921年) 第一次大本事件

昭和7年(1932年) 大和良作、栗原白嶺と共著出版。

昭和9年(1934年) 大和良作の主導で地元に八龍神社建立。

昭和10年(1935年) 12月第二次大本事件 翌年までに987人が逮捕。

昭和11年(1936年) 3月栗原白嶺、独房内で縊死。11月大和良作死去(57歳)

良作氏は医学博士として社会的地位が高く、昭和7年大本教の幹部との共著もあるくらいだから、教団内でも重きをなしていただろう。昭和10年の第二次大本事件の直前まで、教団は飛ぶ鳥を落とす勢いだったというから、この三年ばかりの間で、良作氏が信者を辞めていたとは考えにくい。何より、大本弾圧のさなか、栗原白嶺と同じ昭和11年にまだ57歳という若さで死亡しているのが、大本とのかかわりを推測させられる。1000人近くの逮捕者を出した弾圧の中で、幹部との親交のある良作氏が逮捕を免れるということは、ちょっと考えにくい。

そこで、図書館から『大本資料集成』という分厚い三巻の資料集を借り出してきて、端から丹念にめくってみた。機関誌への投稿者ばかりでなく、本部への訪問客の記録まで探してみたが、どうしても大和良作の名前を見つけることができなかったし、弾圧の関連で死亡した信者の記録にものっていなかった。

ここからは想像をたくましくするしかない。なぜ、80年も経った今、当事者のひ孫が他人からの聞き取りで、すぐその名を出すほど大本教の名前が頭に残っているのかということだ。良作氏の大本教との関係がもともと薄かったり、弾圧前に抜けていたりしたのなら、大和家の人間にそこまでの印象を残すだろうか。

戦前の大本弾圧は大事件であり、大和家の出世頭の良作氏がその関係で命を落としたとしたら、大和家にとっても一大事であり、まったく不名誉な事だったにちがいない。信者は全国で国賊扱いされたという。しかし10年もたたずに敗戦となり、大本教の名誉も回復されることになる。ちょうど共産党幹部の獄中18年が輝かしい経歴となったように、戦前に弾圧されたことは、むしろ正義の証となったのだろう。

だから、戦後の大和家にとって、良作氏と大本教のことは、良作氏の冥福のためにも積極的に語り伝えられたのではないか。この推理が正しいとすれば、良作氏は、やはり逮捕や投獄と直接関係なくとも、それが原因で体調を崩しての死去やあるいは自死だったのだろうと思う。

ところで、大本教の文献をめくりながら意外に思ったことがある。大本教の信仰の内容が、当時の天皇中心の国家神道そのものであって、むしろそれを過激化したものだったことだ。弾圧されたイメージから、天皇国家神道への批判の要素をもっているものと勝手に思い込んでいたのだ。

当時は、政財界や軍の内部に信者を得て急速に勢力を伸ばしていて、国家神道の有力な一派だったのである。弾圧の理由は、国家の側からの近親憎悪だとも、左翼を壊滅させた警察組織が次に選んだスケープゴートだとも言えるだろう。

龍神社の鳥居に刻まれた「敬神尊皇」の文字や拝殿に掲げられた明治天皇の和歌は、当時の大本教の思想そのものだ。だとしたら八龍神社は、大本教の直属の機関でこそないけれども、大本教の精神をもって建立された神社であるといっていいのかもしれない。


大本教と八龍神社(その1)

地元の大井川歩きで、思わぬ場所で大本教の名前を聞いたことがある。

大井とは隣村にある地域なのだが、そこは組ごとに庚申塔が残っており、寺社も多く、古い信仰が守られていそうな集落だ。八龍神社という地図にものっている神社があるのだが、近所の人から聞き取りで、それが大本教にかかわりのある神社だと教えられた。

八龍様は大和家の個人持ちの神社で、大阪にでて大本教の信者だった親戚が建てたものというのだ。なるほど、少し荒れてはいるが、鳥居と石段の上には拝殿と本殿のある立派な構えだが、少し奥まっていて公道に面していない。

大本教出口なお出口王仁三郎が創始した宗教で、戦前に大規模な弾圧を受けており、日本の近代(思想)史でも重要な新宗教だ。その戦前の施設が大井川流域にあったとは。僕は驚き、わくわくした。だとしたら、八龍神社は、弾圧で取り壊されたあと再建されたものにちがいない。

後日、大和家ゆかりの人(先ほどの人の母親)から詳しい聞き取りができて、僕は少し落胆した。この神社は、その人のお祖父さんが建てたもので、直接大本教とは関係のない水神様だという。ただ、大阪に出て大本教の信者になった親戚の指示で建てたものなのだそうだ。たしかに、石の鳥居には、「昭和九年六月吉日建立 医学博士大和良作 世話人大和俊一郎」と刻まれている。大和俊一郎さんが祖父だというから、大本教の信者だったのは、大和良作氏の方だったのだろう。この書きぶりでは、建立の主役は良作氏だったことがうかがえる。

便利な時代になったもので、ネット検索で大和良作氏の情報が得られた。明治33年に長崎医専を卒業し、大正10年に京大で学位を受けている。昭和初期に大阪で性病科の開業医(当時では先駆的)となり、昭和6年に『性病典』という医学書を出版している。その翌年には、まるで畑違いの軍神の伝記『護国の神肉弾三勇士』を栗原白嶺(はくれい)と共著で出している。

ここにきて、ようやく大本教との接点を見つけることができた。栗原白嶺は大本教の幹部であり、戦前の大本弾圧で投獄され、独房で縊死した人物である。良作氏が大本教と関係があったのは間違いない。そうなると、彼の主宰で建立した八龍神社は、本当に大本教と無関係といえるのだろうか。僕はなんとかそれを調べてみたいと思った。

 

 

彼女はどうして神になったか?

天理教の教祖中山みきが神がかりをしたのが41歳、大本教出口なおにいたっては55歳のときである。二人とも、その時までは、農家の嫁や母親として、あらゆる苦難に耐えて、辛抱強く家族の暮らしを支えていた。

何十年という時間の重さは、半端ではない。僕も同じくらいの時間世間に染まって生きてきたから、出口なおのその後の生き方というのがまったく想像がつかない。たまりにたまったうっ憤が、瞬間的に爆発することはあるかもしれない。しかしそれは一気に収束してしまうだろう。

神仏の世界も既得権のネットワークによって支配されている。平凡な老婦人が神を名乗ったところで、誰も取り合わないばかりか、徹底して弾圧を受けるだろう。いったん手にいれた神格を手放さずに戦い抜いたという後半生が、地道で平凡な前半生と比較して、どうしてもわからない。

たとえば現代の新宗教、オウムの麻原の場合であれば、ある程度の宗教的な教養を身につけたのち、若いうちからヨガの教師や最終解脱者を名乗って少数の信奉者を集め、信者を組織していく中で、それに支えられて自らの神格を強化していった。オウムがやったことは極端だが、このプロセスだけは凡庸で了解できる。逮捕されて、信者組織の支えを失っただけで、無残に神格が崩壊してしまった。出口なおの根性に及ぶべくもない。

この問いに対して、僕は、とりあえずこんな風に考えてみた。

世間と夫と神仏という絶対者に対して徹底して仕え、完全に受身になって生きてきた彼女にとって自分の主体性はまったくの「無」であり「真空」となっていただろう。

一方、その中でも無条件の奉仕の対象である神仏は、彼女の中で巨大な絶対性と化していた。何かのきっかけで、彼女の「真空」が神の絶対性を呼び込んで、主体の入れかわりが生じ、彼女自身が神の直接の代理人となったのだ。つまり、前半生での受動性が徹底的に強固であることが、後半生での能動性のゆるぎなさの支えとなったのだと思う。

このことを思い出したのは、『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』を読んで、こんな記述に出会ったからだ。著者の内山節さんは、出口なおの神がかりの言葉に「真理」を感じた人々がいたからこそ、大本教は生まれたという。つまり、なおは、人々の無意識の思いに言葉をあたえたのだ。

僕にはこの考え方が新鮮で、ちょっと感心した。たしかに神格を獲得したなおが、本来の神の言葉と、現実の社会や宗教組織の在り方とのギャップを激しく批判した時、それに納得し共感した人々がいたことは間違いないだろう。しかし、これは、あらゆる宗教団体や政治運動に共通する話ではないか。知力や体力、財力に優れた者ではなく、一介の老女がそれを担ったのはなぜか、が知りたいのだ。内山さんの解釈は、僕の問いに答えるものではない、と思った。

 

『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』 内山節 2007

魅力的な書名。信用のおける著者。活字も大きく薄めの新書。にもかかわらず、読み終えるまでにずいぶん時間がかかってしまった。ようやく手に取ったのが一カ月以上前だったと思うし、そもそも10年以上前の出版だというのが信じられない。まっさきに購入して読もうとしていた記憶がある。それこそ、キツネにだまされたような感じだ。

ようやく読み終えて、その理由がわかった気がした。1965年を境に、日本人がキツネにだまされなくなったという説も、それについての広い視野からの説明も、とても納得のいくものだ。著者は実践的な哲学者として、長く山村にかかわりそこに暮らしてもいる。だからこそ、というか、その時期についても、その理由についても、まとも過ぎて意外性がないのだ。

1965年は、高度成長の真っ最中で、日本の国土や社会に大幅な改造がくわえられた時期だ。このとき、日本の自然と社会、自然と人間とのかかわりに大きな変化がうまれ、日本人がキツネにだまされる力を失ったという論旨。

もちろん、細部には意外な事実や魅力ある解釈が書き込まれている。大井川歩きで参考になりそうなところも多い。自分なりに考えてみたい論点もいくつかある。

ただし、なんといったらいいのだろうか。この本の書名は疑問形でありながら、「なぜ人はキツネにだまされるのか」という根本の問いについて、著者の驚きが感じられないのだ。驚きに駆動されての、ワクワクするような解明のプロセスがないのだ。著者の視点は大局的すぎて、この問いに関する限り、気の抜けたビール(お酒が飲めないので本当はよくわからない比喩だが)みたいな論述になっている。それが残念だ。

『「太陽の塔」新発見!』 平野暁臣 2018

以前から、岡本太郎が気になっていた。彼の画集や評論を持っているし、展覧会も見たし、青山の記念館にも行った。ガチャポンの小さな作品模型もいくつかあるはずだ。しかし、彼が好きとは、表立っていいにくい。

この本を読むと、万博と太陽の塔の成功によって、岡本太郎が国民的な人気者になったことがわかる。僕が出会ったのは、その姿なのだ。後になって、彼が戦前、パリ大学でマルセル・モースから学んだり、戦後、花田清輝らとアバンギャルド運動をけん引したりしたことを知ったが、コマーシャルやバラエティでのあの特異なキャラクターは、簡単には頭から離れない。

太陽の塔は、実際に見ると、細く高い塔のイメージではなく、ずっと大きく太く、堂々とした姿だった。これも本によれば、この塔のそもそもの役割が、万博のテーマ展示のためのパビリオンだったことによる。地下の展示スペースから、太陽の塔が頭を突き出す「大屋根」の空中展示スペースへとつなぐ縦長の展示室なのであって、原生動物から、恐竜、類人猿までがとりつく「生命の樹」を囲う建物なのだ。樹形に合わせて、建物は円錐に似た形をとる。

観客は、生命の樹を見ながらエレベータで上昇し、塔の片腕を抜けて大屋根へと運ばれ、もう一方の腕は非常階段となる。塔の形状は、無駄のない合理的といっていいものなのだ。塔に表情を与えるのは、取り付けられたタイプの違う三つの顔である。それぞれ金属、プラスチック、陶板タイルという材料をつかっている。

リニューアルされた塔の内部は、原色の異空間にうねる樹木に、無数の異形の生物が取りついて、まるで岡本太郎の絵画作品を見るようだった。生命の樹太陽の塔の血流であり臓器である、という表現がこの本にあるが、塔の外観の格別の存在感は、コンクリートの表皮の下にある、生物さながらの繊細で充実した内部組織によるのだろう。

著者は生前の岡本太郎の共同作業者で、様々なエピソードが取り上げられていて興味深いが、絶賛のトーンがやや鼻につく。ないものねだりを言えば、もう少し距離をとった批評があればいいと思う。

内部展示は、岡本太郎の作品として見れば、たしかに色あせることはないだろう。しかし、今現在、生命の歴史を一般の人々に向けて表現するとしたら、映像を使ってはるかにコンパクトで効果的に行うことができるはずだ。大がかりな模造品による見世物風の手法は、もはや歴史的な価値しかないかもしれない。しかし、それゆえ保存する必要があるのだと思う。

ところで、現地で気になったことがある。この巨大で見事な「神像」に向かって、スマホやカメラを向けることよりもふさわしい所作があるのではないか。おそらく、それは祈ることだ。しかし、ここは表向き宗教施設ではない。だから僕も手をあわせることができずに、せいぜいベンチでスケッチの鉛筆を走らせるしかなかった。

 

 

万博記念公園を歩く

大阪の行く用事があったので、万博記念公園まで足を伸ばして、太陽の塔を見た。はじめてのことだ。内部公開の予約もしていたので、待ち時間、太陽の塔のスケッチをしたりした。塔は、外観、内部ともとてもよかった。そのことについては、別に書きたい。

塔に満足してから、公園の中を歩き、国立民族学博物館を見た後、万博の記念館だという建物の中に入ってみた。展示の説明を読むうちに、そこが万博当時のパビリオン「鉄鋼館」の建物を再利用していることがわかった。スペースシアターというホールでは、当時のままの音楽の演出を見ることができる。

それを見ながら、あらためてこの静かな公園が、あの万博の会場であったことが実感できて、予想もしていなかった感動がわきおこってきた。全国の注目を集めたパビリオンの一つに、自分が今、実際に入っているのだ。

万博当時、僕は東京の小学3年生で、実家の暮らしぶりからは、大阪に万博見物に出かけるなど想像もつかないことだった。だから外国の出来事のようで、実際に行けなくとも特別残念に思った記憶はない。しかし、半年の会期の間に様々な情報に触れてはいただろうし、万博に行った友達からの話も聞いただろう。太陽の塔が見たい、という気持ちの奥には、万博への抑圧されたあこがれが潜んでいたことに気づかされた。

それで僕は予定をキャンセルして、終日万博公園で過ごすことになった。今は、小学生時代のやり残した宿題を終えたみたいに、少し爽快な気持ちである。