万博記念公園に出向いた際に、国立民族学博物館(通称は民博)によって展示室を見学した。この手の地味な展示に関しては、飽きっぽくこらえ性の無い僕は、もともと苦手だ。世界の地理や文化についての関心も知識も薄っぺらだし、その上太陽の塔内外で相当歩き回って、足も痛い。
しかし、その割には、世界の地域別の広大な展示室を順路通り歩いて、膨大な展示物にざっと目を通すことができた。そこに収集されたモノたちの表情が、やはり面白かったのだ。地域ごとのおおまかな共通性と、微細な差異と。日本の展示では、見たこともないお祭りの祭具に驚いたりもした。
民博では、初代館長の梅棹忠夫のイメージが強かったが、太陽の塔について調べて、万博での岡本太郎の活躍が、後の民博の設立に貢献したことを初めて知った。
しかし僕が民博に寄りたかったのは、今村仁司先生が、民博の共同研究に社会哲学者として関わっていたことを知っていたからだ。著書『現代思想のキイ・ワード』では、「儀礼」の項目で、民博の様子がいくらか描写されてる。
薄暗い展示室を抜けて建物の外に出ると、二月とは思えない穏やかな陽気だ。太陽の塔の丸い背中が輝いてみえる。僕は、恩師の足跡に触れることができた気がして、うれしかった。
梅棹忠夫が編者となった『文明の生態史観はいま』を読むと、梅棹が自説への廣松渉の批判的論考を評価し歓迎している記述がある。廣松が梅棹を民博に訪ねた際には、「学説をことにするとはいえ、10年の知己のようにたのしくかたりあった」という。「廣松氏はまことにまじめな気持ちのよい紳士であった」とも。
廣松さんは、いかにもという慇懃な振る舞いだが、梅棹忠夫は、さすがに度量がひろい。いずれにしろ、思想界の巨人同士のこんな交流もあったことを知り、民博に寄ってあらためてよかったと思った。この「ご利益」で、僕の考えも少しは前に進んでくれたらいいのだが。