大井川通信

大井川あたりの事ども

論理的ということ(その3:欧米と日本)

ここで話題はうんと卑近になる。

近ごろは、バンドメイドというガールズバンドの音楽を聴いて動画を見てばかりいることを前に書いた。動画の英文コメントを読み、外国のネットの掲示板を読むと、多く欧米のファンが書くコメントが、日本人がそういうところに書くコメントと全く違うことに驚嘆する。

自分が何者で、どういう音楽を聴いてきたかを説明し、このバンドの音楽がどういうものであるかを主張し、その根拠となることを延々と書き込んでいる。その主張に賛成の人も反対の人も、自分なりの論拠をあげて自分の主張の正当性を相手に示そうとする。

日本のコメント欄や掲示板にありがちな独りよがりの放言や、感情的な主張や、短い悪罵の投げ合いが、少なくともそこでは主役ではないのだ。日本の場合、言葉のやりとりはあるのだが、そこに論理や、筋道だった主張があるとはとてもいえない。一方、欧米人は、たかが好みのバンドについて語りあうときですら、ねちっこい論理と対話を手放すことはない。

あらためて、論理というものは、欧米系の文化によって局地的に生み出された思考の態度であることを痛感する。生まれたときから始まる言語の習得と共に、この態度は家族の中で繰り返し示されることで身についていくものだろう。

ところが、日本では、言語の習得とともに学ばれるのは、阿吽の呼吸や空気を読むことや甘えといった態度であり、それは欧米系の論理によって置き換えられるものではない。論理を空気を吸うようにして育つ子どもと、いわば非論理を空気を吸うようにして育つ子どもとは、まったく違う思考回路をもつようになるだろう。

ごく普通の日本人で、論理的で筋道だった話ができる人はめったにいないという僕の経験則は、以上のことからも説明できる。すると、例外的に論理的である人間は、非論理的な環境に取り囲まれながら、いかにして例外的な存在になることができたのかが次の問題となるだろう。

その答えが、(その1)で書いた、小学生などの早い時期での、大量の読書(書き言葉を読むこと)の習慣を持つことなのだと思う。