大井川通信

大井川あたりの事ども

『李陵・弟子・山月記』 中島敦 1967(旺文社文庫)

1979年の第38刷。1981年2月20日の購入日の書き込みがある。大学1年、19歳の時だ。まさか40年後に手に取って読み直すなんて考えてもいなかっただろう。

以前なら、活字の大きい読みやすい紙面の文庫に買いなおして読んだだろうが、今となっては旺文社文庫は貴重だ。老眼鏡の目をこらして、必死に読む。ルビなんてシミのようにつぶれて読み取れない。

読書会の課題図書で手に取ったけれども、今になってかえって輝きを増している印象がある。読みにくいと敬遠していた代表作『李陵』が群を抜いている。『弟子』はやはり泣ける。『山月記』は何度読んだかわからないが、その完成度には目を見張らされる。

中国の古代の話をベースにして、登場人物の内面についていわゆる「近代的な解釈」を施したものだが、芥川がよくやるように近代人のひ弱な内面を投影したりしているのではなく、どの時代にも通用するような骨太の性格を描き出している。だから、とってつけたようなものとはならずに、元の物語と見事に融合しているのだ。

中国の古代の物語に向き合う著者の解釈や問いは、骨格のしっかりした堂々としたものだが、その根底には、「自分とは何か」という血を吐くような激しい問いがあることを、今回の再読であらためて発見した。

人間にとって本質的なこの問いから目をそらしていないから、中島敦の作品は深い泉のように澄明なのだろう。

 

「いったい、獣でも人間でも、もとは何かほかのものだったんだろう。はじめはそれを覚えていたが、しだいに忘れてしまい、はじめから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか?」(『山月記』)