大井川通信

大井川あたりの事ども

『苦海浄土』 石牟礼道子 1968(1972改稿)

読書会の課題図書で読む。いつかは読みたいと思っていたので、ありがたい機会だった。もっと告発一辺倒であったり、おどろおどろしかったりする作品だと思っていたが、想像していたより読みやすかった。聞き取りや記録など様々なタイプの文章をつないでいく手法が、様々な視点の転換と緩急自在な進行を可能にしているからかもしれない。取材ノートやスクラップブックといった体裁である。

特定の人物や家族に焦点を合わせた聞き書きはそれぞれ力強く内容も豊かだが、実際には創作の要素も強いということで、やや単調に感じられるところもある。一方、「死旗(しにはた)」の節で描かれる仙助老人のような人物は、事実に多く基づいているせいか、一般の被害者の物語には収まらないエピソードが魅力的だ。

彼は魚の晩酌は漁師の「栄華」と主張する。山畑を吞みつぶしてしまい、小屋住まいの身となるが、病身の妻の世話と看取りはしっかりと行う。肉親や共同体へは「黙秘権」を行使してつながりを断ち、時計のような几帳面な暮らしぶりながら、風呂嫌いで全身黒光りしている。先祖は武家で県豪小説を愛読。晩年に水俣病を発病して5年間独居後に死亡。解剖台に内蔵一片を残す。ざっとこんなふうだ。

この本では、近代化以前の人間の生活を決定的に傷つけてしまう水俣病が、失われた人々の暮らしの意味を問いかえす契機となっている。これは作者自身が、水俣の自然と共同体の暮らしの側にいたからこそ持ちえた視点だろう。

描かれている事実は重いけれども、時代を隔てて読むと、近代化という暴力を潜り抜けたどこの地域にも当てはまる普遍的な物語を描いているように読める。水俣病における悪の権化みたいな企業を描きつつ、プラスマイナスの両面において「会社」と「地域共同体」とのかかわりを知る資料にもなっている。

  

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