大井川通信

大井川あたりの事ども

『日本習合論』 内田樹 2020

久し振りに内田樹の本を読む。神仏習合という、大井川歩きにとってもど真ん中のテーマを扱っているからだ。相変わらず、面白い。内田樹だから面白いに決まっている、という感じもするが、そういう期待の中で本を書き続けるのはどんな気分だろう。

偶然、再来月の読書会の課題図書に決まったので、その時に詳細は検討するとして、ざっと読み通したところの感想をメモしてみる。

細部の豊富な話題には相変わらずの切れ味があったが、肝心の全体テーマについては、把握の弱さが感じられた。これはおそらく、年齢からする衰えなのだと思う。内田樹にも衰えがあるのかと思うと、少し安心してしまうところがある。老いは人間の自然過程だ。70歳を過ぎて、全盛期と同じレベルの批評(世界の全身的な把握)ができるはずはない。

日本社会や文化の在り方を、習合的、雑種的なものと見て、むしろそこにアドバンテージを読み込むという基調自体は、著者も言うように珍しいものではない。内田は、神仏習合に反するような「廃仏毀釈」が明治初期になぜいとも簡単に実行されたか、という問いを立てる。この新しい問いに対して、目覚ましい解釈を加えて「習合」概念を明確化するというのが、この本の狙いなのだろう。

しかし、この解釈に内田らしい深読みの冴えがないのだ。内田の答えはこうだ。日本人にとって土着と外来が習合しているのが「ふつう」で「当たり前」だが、「間歇的に、土着と外来を分離して、日本本来のものを単離せよという揺れ戻し」が起きる。この揺れ戻しが廃仏毀釈の本質だというわけだ。

内田のイメージする習合論は、話を簡単にしないことだと後書きで述べているが、廃仏毀釈のこの解釈は、話が簡単すぎないだろうか。「習合」対「純化」の二項対立で議論を組み立てた方が、わかりやすい社会的なメッセージにつながるのかもしれないが、事の真相からは離れてしまうのではないか。

廃仏毀釈の運動について、僕が奇妙に思うのは、それまでの信仰生活とは異質の思想が突然熱に浮かされたように流行したものの、それが徹底されることなく、神仏の分離という一定の成果を残しただけで、いつのまにか忘れ去られてしまったということの方だ。

つまり、これは「習合」の否定ではなく、「習合」に付け加わった新たな一要素と考えるべきではないのか。だから、それがたやすく受け入れられ、習合システムの中でそれなりの位置を占めると、われわれの無意識となって忘れ去られてしまったのだろう。