映写技師の吉田さんが勉強会の席上で、子どもの頃の思い出について、こんな話をしたことがあった。たしか吉田さんが交通事故にあったときのことなのだが、まるで自分の身体から抜け出して見ているような情景を記憶しているというのだ。
吉田さんは、いろいろな特異感覚や特殊能力の持ち主だから、そんなこともあるのかと聞き流していた。本人が半ば認めていることだが、何度も思い出す中で、そんな風に記憶を作り変えたのではないか、というくらいにも思っていた。
ところが、たまたま児童画についての専門書を読んでいて、こんな記述にぶつかった。
「幼児期の記憶は、自分も含めた光景をどこかから見ている図として思い浮かんでくるということはありませんか?転んだとき、怖かった出来事、とても嬉しかった一瞬など、なぜか自分が画像としてそのなかに存在しているのではないでしょうか?」「幼児期の記憶は、まるで幽体離脱してどこか離れた場所から見ているようなシーンであったりします」(『子供の世界 子供の造形』松岡宏明 2017)
一方、大人になってからの思い出は、自分の目から見ている光景として記憶されると著者はいう。教え子の学生たちの多くが同意するというから、これはむしろ一般的な感覚なのだろう。
大人にとって「世界」とは自分と分離した対象であるけれども、子どもは自分と「世界」とが未分離で一体化した世界を生きている。その一体化した世界を思い出すとき、自分もまた世界の中に含まれる、というのが著者の解釈だ。理屈としてはすっきりして了解しやすい。
ところで、僕には、この「自分の姿を含む記憶」というものが思い当たらない。それもちょっと悔しいので、今、幼児の頃の記憶をゆっくりたどりながら、その中に自分の姿がないか探索中であるが、思わしい結果はでていない。一番古いと思われる記憶も、やはり自分の目からながめられた情景だ。
ただし、この作業によって、幼児の頃の実家の周囲の街が徐々に思い出され、現在の街の様子と置き換えられて復元されていくのは興味深い。
学生たちなら十数年前の出来事だが、僕にとってはすでに半世紀の時間が経過している。僕はもう自分と世界が生き生きと一体化した時代の記憶を失ってしまったのかもしれない。それを今でも維持している吉田さんは、やはり特殊能力者なのだろう。