大井川通信

大井川あたりの事ども

10年日記の効用(その2)

今年はいろいろな意味で区切りの年になりそうだが、ちょうど自分がつけている10年日記の最後の年になる。

日記は、小学校の低学年の時から中学生まで、父の勧めで、というより完全に強制でつけさせられた。小学生の間はときどき父親がチェックして、つけていないと怒られた記憶があるが、そのおかげで小学生の頃の生活を振り返る記録となっている。

しかし、それ以降、年度当初には日記やノートをつけようと決意する年があっても、せいぜい3月くらいで自然消滅するのがいつもだった。3年連続日記にも挑戦したことがあるが、やはり効果はなかった。

それが、10年前、どうして連続日記に挑戦しようと思い、さらにここまで書き切ることができたのだろうか。毎日のスペースが小さく、手帳などを見てまとめ書きができるというメリットはあるが、それだけではないはずだ。

僕の誕生日は年末だから、50代に突入した直後にこの日記をつけ始めたことになる。この10年間が定年までの自分の50代をすっかりカバーするという自覚があったはずだ。と同時に、自分がある程度元気で自由に活動できる見込みがある最後の期間であるという思いもあったのだと思う。毎年、少しずつ小さくなっていく余白の紙面を見ながら、それをかみしめた。

あらためて読み返すと、この50代は、僕の平凡で貧しい人生のなかでも「収穫期」といっていい手ごたえのある期間だった。そうなった理由の一つに、この連続日記による生活のマネジメントの効用があったのも間違いないだろう。

この年末には、僕は新しい10年連続日記を手に入れるつもりだ。次の10年は、それがどこまで続くのか、どんなリスクがあるのか、まったく保証のない期間となる。しかし、今回のコロナ禍で一度失った生命だと思えば、まったく拾い物のオマケのような恵まれた時間でもあるだろう。

次は毎年毎年の完走が、いっそう明確な目標になる。あたらしい10年連続日記とのつきあいがどんな風なものになるのか楽しみだ。

 

 

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