大井川通信

大井川あたりの事ども

『100万回生きたねこ』 佐野洋子 1977

カフェで絵本を読む計画について書いたが、さっそくあれこれ読み出している。名前を知っているだけの話題作にも気軽に手を出すことができた。たとえば『えんとつの町のプぺル』。ストーリーは古典的でやや平凡だが、絵の存在感はさすが。

100万回生きたねこ』も今になって、初めて手に取った。うすい本だけれども、ずしりとくる読後感があった。

前半は、100万回生まれ変わったという猫の、一回一回の人生(猫生)を絵本らしく軽妙な繰り返しで描いている。どんな飼い主に飼われても、その飼い主との暮らしが大嫌いだと公言する猫。不測の事故であっけなく猫が死ぬ(これもいかにも猫らしい)と、飼い主はおおいに悲しんで、猫をていねいに埋める。その100万回の繰り返し。

猫好きとしては、この猫の傲岸不遜な態度と人間からの一方通行の愛情との対比がリアルでとてもよい。

ところが後半、猫はようやく人間から離れて野良猫として生まれ変わり、自分の家族と子どもをもつようになる。愛する妻猫に死なれた猫は、さんざん泣きじゃくったあげくに死んでしまい、もう二度と生まれ変わることはなかった、という話。

傍観者としての退屈な生活を繰り返してきた猫が、当事者としての一回限りの命を味わったことで生命を全うしたというように読むこともできるだろう。いわば猫の成長物語として。

しかし、前半部の猫の暮らしや態度にこそ、猫らしい魅力を感じるというのも本当のところだ。後半は、人間みたいな主観を猫の中にむりやり押し込んでしまったのが残念、という読み方もできる。

どんな解釈が今の僕の腑に落ちるだろうか。猫だろうが人間だろうが、この世で命あるものは、繰り返しの傍観者的な(生命の継承者としての)生き方と、一回的な当事者としての生き方との両面の生活を同時に行っている。そのどちらに優劣があるわけではない。

その大きなふり幅を、一匹の猫のストーリーの中で魅力的に造形したところにこの作品の力強い魅力があると思う。