大井川通信

大井川あたりの事ども

『詩集 言葉のない世界』 田村隆一 1962

新年早々、北九州連続監禁殺人事件のドキュメントを読むやりきれなさから、思わず手にとった詩集。わずか十篇の薄い詩集が、半世紀以上を経て2021年に再刊されており、昨年、帰省中の国立増田書店で手に入れた。この十篇は、田村隆一のいろいろなアンソロジーで読むことはできるが、一冊の詩集で読むのは格別だ。

松永が様々な事件を巻き起こし、多くの人たちを不幸に陥れたのも、嘘の言葉を喋りまくることによってだった。言葉によって人を舞い上がらせ、おとしいれ、痛めつけ、拘束し、しぼりとり、自ら手を下さずに命を奪った。被害者の家族も、自ら偽りの言葉を使うことによって、自らの本能にも社会の常識にも反する行為に落ち込んでいった。

すべて「言葉のある世界」での出来事である。田村隆一は、言葉によって「言葉のない世界」を希求しつつその輪郭を素描する。この憎むべき(愛すべき?)矮小な世界の外部について考え続けるのだ。

 

雪のうえに足跡があった/足跡を見て はじめてぼくは/小動物の 小鳥の 森のけものたちの/支配する世界を見た/たとえば一匹のりすである/その足跡は老いたにれの木からおりて/小径を横断し/もみの林のなかに消えている/瞬時のためらいも 不安も 気のきいた疑問符も そこにはなかった/また 一匹の狐である/彼の足跡は村の北側の谷づたいの道を/直線上にどこまでもつづいている/ぼくの知っている飢餓は/
このような直線を描くことはけっしてなかった/この足跡のような弾力的な 盲目的な 肯定的なリズムは/ぼくの心にはなかった/たとえば一羽の小鳥である/その声よりも透明な足跡/その生よりもするどい爪の跡/雪の斜面にきざまれた彼女の羽/ぼくの知っている恐怖は/このような単一な模様を描くことはけっしてなかった/この羽跡のような 肉感的な 異端的な 肯定的なリズムは/ぼくの心にはなかったものだ
突然 浅間山の頂点に大きな日没がくる/なにものかが森をつくり/谷の口をおしひろげ/寒冷な空気をひき裂く/ぼくは小屋にかえる/ぼくはストーブをたく/ぼくは/見えない木/見えない鳥/見えない小動物/ぼくは/見えないリズムのことばかり考える   (田村隆一「見えない木」)

 

「支配」も「飢餓」も「恐怖」も、松永たちの借りた小さなマンションの室内に満ち満ちていたものだ。しかしそれは本当の支配でも、本当の飢餓でも、本当の恐怖でもなかったと断言した方がいい。それがこの陰惨な事件を浄化する糸口になる気がする。