大井川通信

大井川あたりの事ども

母の命日

今日で、母が亡くなって5年になる。両親、とくに母親からの無条件の愛情というものは、時に重荷になったりうっとおしく思ったりするけれども、やはり自分の人生を前向きにとらえていくうえで大切なものなのだと思う。

母親が亡くなって、そうした無条件の愛情を注いでくれる存在はこの世からいなくなった。そういう存在がいる世界といない世界。考えてみれば、それは僕にとっての世界の性質を大きく変える出来事のはずだ。しかし、実際はそんなことはなかった。

その理由はつまり、母親からの無条件の愛情の余韻が、僕のなかに残り続けているからだろう。幼いころから日々受け取り続けたそれが僕が生きているかぎり、生きているという所作の中でふるまい続ける。生きていることは同時に、そうした愛情を反芻し続けることでもあるのだ。

そういう愛情の働きを子細に見続けると、それが必ずしも母親と僕との一対一の関係の中に閉ざされたものではないことに気づく。祖先のひろがりのなかで愛情をとらえるということは、ごく自然にできることだ。祖先を敬って祈るということの現実的な根拠はここにあるだろう。

祖先からさらに、生活の舞台としての自然そのものに愛情の源泉を求めることもできるだろう。さらにその先の「神」といったものに対しても。

母の命日が覚えやすいのは、僕の姉の誕生日である6月4日の前日であるためだ。母は、姉が還暦を迎える前日に突然この世を去った。考えてみれば、実家近くに住む姉には、父母の老後の世話と最期の看取りまですべてまかせて、それに甘えてしまった。父母の気持ちを思うと、一人暮らしの姉の晩年のサポートをいくらかでもすることが、親孝行の代わりになるかもしれない。そう思う。