大井川通信

大井川あたりの事ども

次男の子育て(仕事と年金)

なんとか就職できた先は、介護施設を全国展開する企業で、創業社長が一代で築きあげた会社だった。入社前から研修があり、本社での入社式も、障害のある次男も別扱いせずにいっしょに行い、参加した妻がその名物社長と応接室で親しく話をして会社の本をもらって帰ってきたくらいで、最初から印象は悪くなかった。

次男と同じ施設に配属された女子社員が一週間で来なくなったそうで、職場環境は大変だったと思うが、なんとか適応はできたようだった。いじめのようなものがあり、次男が出社を嫌がったときは、初めは、障害者の就業の促進を図る団体(公の補助金で運営されている)に間に入ってもらったりもしたが、結局は親が直接のりださないと解決はつかなかった。

お前のお母さんは恐ろしいな、施設長から感心されたほど、この分野では妻が活躍した。5年目に人間関係に大きな亀裂が出来た時も、妻が本社にかけあって地元の市の施設への転勤を勝ち得たのだが、結果的にこれが退職の遠因になった。利用者の誘導という簡単な仕事を任されていた環境から、介護の仕事を覚えられるようにと仕事の種類を増やされたためにパニックになってしまったのだ。

はじめから正社員での入社を喜んでいたが、給与の金額は、時給計算のバイトと変わらなく、昇給もなかった。初めの年は土日の休みしかなかったが、翌年以降祝日休みに相当するような休暇が少しずつ増えるようになった。これは労働環境の改善がなくては人が集まらなくなったためだろう。1万円だけのボーナスも、3年目からは10万円支給されるようになった。

20歳になったときに障害年金の受給の手続きをしたのは、学校の時に説明会などで情報を得ていた(とくにあの有力な教師が熱心にすすめてくれた)ためだが、手続きは煩雑で、正直受給できなくても仕方ないと思っていた。

ところが、次男が実際に働き続ける中で、これからも最低賃金程度の待遇しか期待できない現実を知るようになると、本人が働いてしっかり社会貢献して生きていくためにも、障害年金のサポートが必要であることがわかるようになった。仕事に適応できずに転職することも多いだろうから、そのつなぎの意味でも。