大井川通信

大井川あたりの事ども

大井川歩き(タグマ編)

老害事件」から休日でいうと3日目に当たる朝。今朝も涼しいファミレスに逃げずに、また快適なリビングでの自堕落な動画鑑賞に逃げ込まずに、大井川歩きに出発する。

今日は市街地の方に足が向く。1日目は釣川に沿って宗像大社まで。2日目は里山を抜けて用山まで。今度はまったく逆方向の市街地だ。

大きな交差点で八並川を渡る。ここの少し下流で、クロツラヘラサギに出会ったことがあったっけ。交差点を過ぎると小学校グラウンド脇だ。暴走車が道を逸れてグラウンドに落下して、その少しあとに妻と次男が通りかかる危ないニアミスがあった場所。

今年創立150年だという横断幕が張られた小学校の敷地を横切ると、次男が通っていた「学童」のプレハブが見える。もう10年以上前のことだ。

タグマの路地に入っていくと、かつて酒造場の木造の施設があった場所には、小区画の今風の住宅が並んでいる。レンガ煙突のあったあたりを通りすぎると、不意に目の前にバイクで知った顔があらわれて呼び止められる。

金光教の近所の教会長さんだ。近くの墓地にある奥津城(お墓)にお参りにいった帰りだという。行橋教会の井手師から本腰を入れて学ぼうと考えていることを報告しようと思っていたところだったので、立ち話する。絶好のタイミングでキツネにつままれたよう。信仰者は、こうした出来事を神様からの「差し向け」と受け取るのだろう。

遺跡公園の敷地に裏側から入る。弥生時代の集落あとで、当時の竪穴式住居などが再現されているのだが、記憶の再現を目的とした施設なのにもかかわらず、かえって何のイメージも喚起されない。

たぶんこういうことだろう。原初から人間は、歩きながら特定の場所で食物を得たり、危険な目にあったりしてきた。土地に結び付いた記憶をありありと保持できなかったら、生き延びることはできなかったはずだ。人間関係の喜怒哀楽や社会生活の行事も場所がらみの記憶となっていたにちがいない。

出来事を場所で記憶し蓄積する。実際に場所を訪れることで、記憶が生き生きと立ち上がる。これが人間の基本構造だ。

だから、出来事が生じる生活の現場でこそ、しっかりと記憶が刻まれる一方、生活も出来事も不在の遺跡公園はのっぺりとした記憶の空白地帯となるのだ。