大井川通信

大井川あたりの事ども

二つの現代美術展

年明けから現代美術を専門とする外田さん、岩本さんとの読書会が始まるから、少しは肩慣らしになるかもと二つの現代美術家の展覧会に寄ってみる。

予想通り、というかそれ以上にひっかかるものが何もなかった。しかしこれには事情がある。風邪気味が続いて体力も落ちていて、美術館にたどりつくだけで疲れてしまったのだ。そうなると、展示室を落ち着いてじっくり見て回ることもできない。とりあえずながめるだけになってしまう。

ここでえた教訓は、現代美術(とはあまりに大雑把なくくりだけれども)の作品は受け身の状態で心を奮い立たせてくれるようなものではなく、観る側の積極的に読み解く作業に補完されて初めて成立するということだ。そこに展示されているものは、作品が立ち上がるためのきっかけとなる断片や部分でしかなく、それをそのままただながめるだけでは何も始まらないのだ。

実際のところ、美術展の常設展で、中村宏小山田二郎の絵画を観ると、それは一瞬疲れを忘れさせてくれる力があった。現代美術はそういうマジックを狙っていない。

それと、今回見た作家が僕とほぼ同世代のベテランで、おそらく二人が比較的地味で手堅い作品を長く作ってきて、その回顧展だったことにもよるだろう。

一人は東京都現代美術館での豊嶋康子(1967-)展。僕が身近で見たことがあるような現代美術作品が並んでいるが、年齢的に彼女はその走りなのだろう。モノやモノの集合に何かの意味が込められているのは感じるが、モノそのものはどこか稚拙で中途半端な作りで、人目を驚かすようなものではない。広い展示室をめぐるデザインかと見過ごしていたものが、連結したそろばん(エンドレス・ソロバン)だったことにハッとしたくらいだ。

リーフレットに短い自作解説がのっているが、残念ながら展示室で作品を見ているときには気づかなかった。主宰者もこの「鑑賞ガイド」が必要だと判断したのだろうが、実際にこれがないと作品の意図はつかめないだろう。

たとえば、様々な銀行の預金通帳が集められた作品がある。何かを集合させた作品が並んでいるから、普通に利用してきた通帳を展示したものだろうと了解して通り過ぎた。自作解説によると、1000円で口座を開設し、届いたカードで1000円を引き出し、また別の銀行に口座を開設するというループを繰り返した結果らしい。なるほど。しかしそのプロセスも別段面白いとは思えない。

ただし、ひとつひとつの作品の前に立ち止まって、その断片から作者の作品創出プロセスを追体験しコンセプトを反芻することで、何か特別な思想や世界の深みに到達できる可能性があるのかもしれない。

この意味で「現代美術」は「現代詩」と似ているような気がする。作者のすべての身勝手と恣意に、こちら側が好意的に反応する必要はないし、それは無理な相談なのだ。ここで大切なのは、見る側が積極的に作品を選り好みすることだろう。ただしその選り好みにも気力、体力の充実が必要だ。

二つ目は、府中市美術館の白井美穂(1962-)展。こちらも覚悟して観に行ったが、作品数も少なく、「鑑賞ガイド」もないものだから、飛ばし読みをするみたいにヨロヨロと会場を通り抜けてしまう。戻ってみようという気持ちにもなれなかった。

そんなわけで、今回の僕の現代美術再入門は見事に失敗に終わってしまった。まず知力と気力、何より体力を回復してからでないと、リベンジは難しいにちがいない。