大井川通信

大井川あたりの事ども

高島野十郎の絵

福岡県立美術館高島野十郎(1890-1975)の展覧会を見にいく。大規模な回顧展を見逃したりしていたので、ずいぶん久し振りに彼の絵を観た。

知り合いの現代美術家高島野十郎の絵とかつまらない、と言っていたが、何の変哲もない風景画としてみればそのとおりだろう。しかし、実際にみると、彼の絵は面白い。何か確かで豊かなものを味わった気がして、満足して美術館を後にすることになる。多くの人にとってもそうだから、人気があるのだろう。

今回、キャプションで、彼が絵画について「慈悲」と捉えていたことを知った。書き込みのある手持ちの仏教書も展示されてあった。詳細な思想の中身についてはわからなくとも、彼の絵にのぞむ姿勢を知る上で、ヒントになるものだと思えた。

彼の風景画は、自己の主観で切り取られたものではない。偏狭な感性やコンセプトを投影したものではない。かといって、自然のありのままを即物的に写し取ったものでもない。画面の端々までていねいに描きこまれた細部は、いわば超越者のまなざしを受けて、等しく生命の輝きを宿している。

彼には闇を照らす蝋燭や月を描いた連作があるが、モチーフの繰り返し自体を目的化しているような感じはしない。観る側の評価を当て込んで、その効果を計算したものではないのだ。蝋燭や月影に、直に、やむにやまれず向き合っている印象がある。

野十郎の描く木々の枝は、一本一本が生き物のようにうねっている。大げさなように思えたけれども、雑木林を歩くと、それが実際の姿なのに驚いた。それ以来、僕の中で樹木の見え方が一変してしまったのを感じている。