大井川通信

大井川あたりの事ども

『構造と力』(浅田彰 1983)を文庫本で読む

昨年末、浅田彰の『構造と力』が出版後40年で、初めて文庫化された。それで、年末年始休みには、この本をはじめとする当時の現代思想ブームの本を読み直してみたいと考えて、なんとか『構造と力』だけは三が日で読み終えた。

今では思想書が文庫になるのは珍しくないが、40年間鮮度を保って、文庫化が待望されるというのは異例だ。その手の文庫化の走りだったと思うが、僕の学生時代、吉本隆明の『共同幻想論』が角川文庫になって話題になった(1982年)が、それも原著出版(1968年)の14年後のことだ。

再読して、文章がみずみずしく論理が圧倒的に明晰であることに驚いた。小さな注にいたるまで文章のすべてが記憶に残っているといっていいが、懐かしいという感じはしない。今でも新鮮で直接に頭や身体に吸い込まれていくようだ。

自分の思想として血肉化されている部分の多くが実は『構造と力』に負っていたことにあらためて気づかされる。これは意外だった。自分ではせいぜい岸田秀の門下生だと思っていたのに。

千葉雅也の文庫本解説も悪くなかった。若い読者に届けたいという思いがあるのだろう。本書を思想史の文脈に位置づけるという課題を提起してもいる。もちろん僕にはその力はないが、これほどの影響を受けた個人的かつ世俗的な事情を回顧することはできるだろう。

僕が大学に入学したのは1980年だったが、マルクスの神格化は崩れても、マルクスを必須の教養として読むという雰囲気は残っていた。マル経の講義も受けたし、資本論第一巻くらいは自分で読んでみた。

思想評論の入門として「70年代左翼」の潮流に触れる機会があった。彼らは教条的でない左翼思想を、自らの身体性をベースに発信していた。菅孝行(演劇)、岡庭昇(詩・メディア)、粉川哲夫(哲学・身体表現)ら。吉本隆明柄谷行人を知って読み始めたのも、当初、70年代左翼からの批判によってだった。

70年代左翼たちは、革命思想を身体論で救おうという志向があって、現象学、とくにメルロポンティの評価が高かった。マルクス+メルロポンティでどうにかなるみたいな。そのため僕も入門書レベルの勉強をした。もっとも、70年代左翼には、身体性のマイナス面(偶像崇拝、差別等)を見据える論者もいた。

そんな中、偶然講義に顔を出して、今村仁司先生を知ったことで生活が一変した。他大学にモグって『労働のオントロギー』と『暴力のオントロギー』の講義、ゼミではハーバーマスアルチュセールを読んだ。マルクスなど同じ対象を論じるから、柄谷や浅田と今村先生を読み比べることで理解が深まった。今村先生はマルクス廣松渉シューレの一員)と現代思想の交点にいた人で、現象学構造主義の独自で精緻な解釈ともいうべき廣松哲学に親しむきっかけになった。

ここで、『構造と力』の登場だ。ラカンクリステヴァドゥルーズデリダを読んでいなくても、それらを「暴力的に単純化」して論じる本書をとりあえず理解することは難しくはない。何より、マルクス構造主義の限界を明晰に確定して、その可能性を単純明快に取り出す手腕は他では見たことのなかった。当時左翼の頼みの綱だった現象学(メルロポンティ)をバッサリ切る手際にも衝撃を受けた。

他大学にモグって思想を学びつつ、地元での地域活動や「障害者」自立生活運動に活路を見出していた自分には、本書のポストモダン風の生き方の提案にも共鳴できるところがあったのかもしれない。