大井川通信

大井川あたりの事ども

行橋詣で(2024年1月)

小雨の中早朝から家を出て、前回のようなドタバタはなく、午前9時過ぎに教会に着く。先生はちょうどご先祖の奥津城(墓所)にお参りにいこうとしていたところだった。地元では一番美味しい「宗像最中」を持参。井手先生は物々交換とつぶやいて、別のお菓子を持たせてくれる。

新年最初に念願のガルシア=マルケスの『百年の孤独』を読まれたという。その他、評論家の若松英輔や哲学者のジョルジョ・アガンベン儒学者佐藤一斎の名前がでてくるなど、目配りの広さには驚かされる。

それが誘い水になって、僕も年末年始にニューアカ40周年で浅田や中沢の本を読んだこと、長く敬意を抱いてきた柄谷行人の最近の活躍の話、あげくには読みかけのデリダの動物論の話までした。

東浩紀はどうかという話が出たので、いわゆる「おかげ話」(日常において奇跡と思われる出来事)が、東の『観光客の哲学』で紹介されている論理(狭い生活圏での暮らしからランダムに飛び出す少数者の存在によってつながりは飛躍的に広がる)によって説明できるのではないかという仮説を話す。信仰とは、日常の外に一歩足を踏み出すことだからだ。

先月紹介された中山亀太郎『運命を愛し運命を生かす』を読んだ話をすると、両手と片足を幼少期の事故で失った中山先生が、わが子を抱くことができなかったのが一番残念だったという話をされたというエピソードを教えてくれた。

サンフランシスコ教会長だった福田美亮(よしあき、びりょう)の『信者の心得』の英訳本を少しづつ読んでいることを話す。和歌山出身の福田先生は、合理的で論理的な側面とそれに収まらないもの(非合理的な「すごい」世界)とを併せ持っていたそうだ。その違いから高橋正雄と派閥のように対比されることもあったらしい。

前回僕の提出したレポートからは、高橋正雄、一郎父子のかかわりのことが話題になって、「退一歩(たいいっぽ)」という言葉を高橋一郎が使っていたことを教えていただく。