大井川通信

大井川あたりの事ども

お互いに空気であること

近代短歌の名作集を読んでいたら、老いた作者が、その妻を「空気」みたいな存在だと表現する歌があった。昔の歌なので、当時から「空気」という比喩表現があったことに驚く参加者の声もあった。

たしかに高齢になってお互いが空気の様に気にならなくなった夫婦の話を聞くこともあるし、そうした姿が老夫婦の理想像であるような世間の「空気」もある。でも、ほんとうのところそれはどうだろうか。山本七平に有名な『空気の研究』という本があるが、それによれば空気とは日本的な権力や支配の原理なのだったと思う。

空気のようだと自由に感じているのは夫の方で、夫にそう感じさせるための努力や無理を妻の方がしていたのではないか。その水面下の努力のおかげで、夫婦間の摩擦のない関係が維持されていたのではないか。

亡くなった僕の両親も、とくに晩年になると仲のいい夫婦だったが、専業主婦で隣家の叔父家族の家事も手伝っていた母親は働き者で、毎朝父より早く起き出して炊事し、父親が帰宅した時に横になっている姿を決して見せなかった。それが当たり前だと思っていると、今の夫婦関係ではいさかいの原因となってしまう。

父親が晩年に交通事故で遠方の病院に長期間入院していた時は、毎日必ず病院に行って何かと世話をやいていた。今から振り返ると、母親のかいがいしい努力が、家族を支えていたのだと思う。そのうえで、父親も子どもたちも母親を空気みたいに思ってきたのだ。

ちなみに、その歌は窪田空穂(1877-1967)最晩年の以下の作品。あらためて読むと、老化からさらに進んで認知症の世界(あるいは半分あの世)に足を突っ込んだ状態を自虐的に歌っているようにも思えて、好感を持てなくもない。

「老ふたり互に空気となり合ひて有るには忘れ無きを思わず」