大井川通信

大井川あたりの事ども

『続・ゆかいな仏教』 橋爪大三郎・大澤真幸 2017

『ゆかいな仏教』があまりに面白かったので、その続編を注文して読んでみた。同じ対話形式の本でも、前著の半分くらいのボリュームしかない。前著は、本づくりのために仏教を網羅的に語ったものだが、今回は雑誌掲載の対談2本をまとめただけだから、分量の違い以上に扱われている知識量が少なく、あっさりとした印象だ。

しかしその分テーマが絞られているので、前著よりも理解が深まったところもあった。一本目の対談は、キリスト教と仏教との違いを語ったもの。とくにキリストと釈迦という神と人間とを媒介する位置にいる存在について、その性格の違いを際立たせるものだった。こんな重要な論点を、正面からわかりやすく語ってくれるような本は見当たらないだろう。

二本目の対談は、インドで発祥した仏教がどのようなもので、それが日本で受容されて実際にどのように変わったのか、という論点だ。これこそ日本で仏教を語る以上、なによりも重要な問題だと思うのだが、日本の仏教者にとっては語りにくい部分のようで、たいていあいまいにしか扱われない。各宗派は我こそは仏教の正統であると主張するわけだから。

しかし、考えてみれば、最低この二つの論点を踏まえないと、今日本で仏教をまじめに信仰することなどできないはずである。

日本は、近代化以降西欧の価値観、制度を激しく取り入れてきた。その根底にはキリスト教がある。近代化された生活を送りながら、その生活の根底にある考え方と異質の仏教を受け入れるというなら、キリスト教と仏教との違いを明確に意識する必要があるだろう。また、仏教の中にインド本来のものとそれが日本化されて変更されたものがあるというなら、その腑分けをせずにあいまいに全部を受け入れることなど許されないはずである。

ところが日本の仏教徒の現状は、たまたま自分が縁のあった宗派の先生に教えられた理屈(上の二つの論点を経由していない以上、どんなに難解な教義を背景にしていても、あいまいでよくわからないものにならざるをえない)をありがたく受け入れるくらいのことしかできていない。実際、僕がそうだった。

10年以上、近所の聞法道場に定期的に参加してすぐれた先生の教えに触れたり書物をあさったりしてみても、仏教とその日本化された形態のおおざっぱな輪郭さえ、頭に入っていなかったのだ。それでも、あくまで部分的に了解できるところだけを納得して満足していたのだ。

先生がある時、聞法道場の高弟から尋ねられた「浄土とは何か」という問いに対して、ダンススクールみたいなものだと答えていたが、その真意は、この二冊の本を読むまでよくわからなかった。仏教の世界観の輪郭が頭に入っていなかったからだ。しかしそれを問うた勉強家の高弟の方にしても、事情は同じなのかもしれない。

また、先生が、仏教は智慧において救われるものだと強調する言葉も、印象には残っても腑に落ちるようなことはなかったと思う。ところが、この本では、仏教の知的な性格を「人ではなく真理にコミットメントする」(大澤)と説明したり、もっとも善いことは世界の因果性を知的に認識することだが、一神教のように世界が神の言葉で作られているわけではないので、この因果性の認識は「非言語的」なものとなる(橋爪)という明解な説明が与えられる。

問題は細かい知識の量やその正確さなどではなく、世界を単純化しうる太い論理の把握であることに気づかせてくれる本だ。

 

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