大井川通信

大井川あたりの事ども

久しぶりに映画を観る

映画を観たといっても映画館ではなく、美術館の一室での上映だった。

北九州の青山真治映画祭のプログラムで『路地へ   中上健次の残したフイルム』(青山真治監督   2000年   64分)を観る。パンフの紹介文には、「『音楽を作るように映画を作る』と言った青山真治監督が、坂本龍一大友良英の音楽と共に、中上健次に捧げた作品。中上健次が生前撮影していた故郷・紀州の路地を、同じく紀州出身の映像作家の井上紀州が訪ね歩くロードムービー。」とある。外田さんが「貴重な機会」と紹介してくれたし、岩本さんも「いつまでも観ていられる」という感想を口にしたので、よい作品なのだろう。ただし、僕は映画があまりにも久しぶりのため、その入り口で別のことを考えていた。

まず、演劇に比べて観るのがとても楽だなということ。演劇は、目の前の役者のリアルな肉体が圧迫感があって、恥ずかしい。下手だったり面白くなかったりすると逃げ出したいと思うことも多いが、いわば客席に物理的に拘束されている。

映画は映像だから、この恥ずかしさがない。たとえ何を見せられてもスクリーン上になめらかに展開する世界という制約があって、安心感がある。映像の情報量は舞台とは比べものにならないから、作品が退屈だったり自分に合わないと思っても、スクリーン上の豊かな情報を楽しむことに切り替えればいいだろう。

ただ、楽というのは五感が受け身になっているということでもある。まず肯定ありきの世界なのだ。すると、路地というものがテーマの作品としては物足りないものが感じられた。世界を批評するという目線とは、いい悪いではなく、なにか完全にすれ違ったものであるようだ。

まず、路地に向かって延々と車を走らせる映像が続く。これが路地への距離感、路地の奥深さを象徴的に示しているのだろう。しかし、ここには車でアクセスするという現代で当たり前の所作に対する批評はなく、それに全面的に乗っかってしまっている。

つぎに、路地に近づくにつれ、任意のポイントで中上健次のテキストの断片が朗読される。これは路地に到着しても同じだ。印象的な風景の中で、本を開いてテキストを読上げる訪問者の姿は風景にすっかりなじんで自然なものとして撮られている。しかし、テキストを読むとはもっと異様で見苦しい身振りではないのか。

このような扱いは、中上のテキストが文学的に崇高であり押しいただくものであるという前提があるからだろう。このテキストに対する態度の延長線上に、中上本人が撮影した映像の引用が登場する。中上の映像は、この映画よりも10年くらい前に撮られたもので、路地の面影がより濃く残っているものだ。

しかしこの中上による映像の分量は意外なほど少ないし、この映画での撮影映像の中に埋もれている。聖なるテキストに導かれた聖なる映像だから、分量や内容は問題ではなく、それを引用することに意義があるということなのかもしれない。しかし本当にそうか。中上のフィルムは自分が生きた記憶のこびりついた土地に向けられたものだ。映像作家が切り取った風景とは根本的に意味が違う。その落差を批評的にとらえる視点は、この映画の中にはないように思えた。

中上健次の墓の映像が一つのクライマックスの扱いを受けていることが示すように、この映画は中上健次という作家がもつ象徴的な力を枠組み(額縁)にして、その中に風景と音楽を流し込んで作られたもののように思える。

このなめらかな映像が遮断してしまっているのは、路地とその改変という現実がもっと身近に、日本のあちこちにあり、現にあり続けているということへの想像力ではないだろうか。