大井川通信

大井川あたりの事ども

マイクロツーリズムについて

今度のコロナ禍で、観光業はもっとも大きな打撃をうけているだろう。ある観光会社の代表が、少し前にニュースで「マイクロツーリズム」について話しているのが耳に残った。ネットにもその話題は出ているようだが、僕が理解した範囲を書き留めておこう。

今後、観光に人が戻るのは時間がかかるし、今までの大きな収益源だったインバウンドが戻るのは最後になるだろうと、彼はいう。では、その間、何をするのか。彼の答えは、それが将来への大きな戦略も兼ねているところが新鮮だ。

マイクロツーリズムとは、県境をまたがずに、自宅から何十分かで行けるような場所を訪ねるような観光だ。今からは、そのような場所の魅力を発見し、新たな観光資源を見出して、観光業の足腰を鍛えるのが大切なのだという。

マイクロツーリズムでは、大きな収益源にはならないかもしれないが、人々を観光の魅力につなぎとめることができる。また、ここで見いだされた地域な魅力は、将来的にインバウンドを含めた観光の武器になるだろう。

大井川歩きは、全く違う文脈で始めたことだから、こうした観点は面白かった。教育の世界での地域学習なども、こんなダイナミックな視点が必要だろうと思う。

 

ある教育メソッドの謎

今は、子どもたちに、協働して一つのことを考えさせたり、話し合いを通じて新しいことを発見させたりする授業がはやっている。これからの時代は、そういう学びの力が必要になるからだという。

そのための授業づくりの手法として、こんな形式的なやり方がある。まず、ある設問に答えるために必要な小さな問いをいくつかにわけて、それぞれについて班別に考えさせる。次に各班のメンバー一人ずつを集めた班をあらたに作って、各班で考えた成果を持ち寄ることで、当初の設問を考えさせるというものだ。

パズルのピースを集めると、全体の姿が出現するのと同じような手法だからということで、そういう名前が付けられている。なるほど、協働作業によって、部分的な思考が、より広い思考の一部となり、問題解決につながるという明快なストーリーがここにはある。

しかし、問題の全体をピースに切り分ける作業は、教師のおぜん立てであり、子どもたちは自分が考えるピースを自ら選ぶことはできない。

教育の専門家ではない僕が見ても、短い一コマの授業の中で、あわただしく形式的に手続きを踏むことで、子どもたちに考える力が身に着くようには思えなかった。大人の自己満足、であるような気もした。

こんな疑問がずっとあったのだが、今日、このメソッドの創始者の書いた短文を読んで、この謎が氷解する思いがした。創始者によると、子どもたちには、あらゆる思考の力(協働して問題解決したり、イノベーションを起こしたりする高度な思考を含めて)を潜在的に持っている。あとはそれを適切な環境で発現させることが必要なだけだと。言語学者チョムスキーのコンピテンス/パフォーマンスという考えを参考にしたものだという。

このメソッドに批判的なベテラン教師は、子どもたちの「知りたい」という気持ちに支えられない学びは空疎だという。人間は「知りたい」という思いによって、自分の外に向って飛躍することができるのであり、新しい思考をつかみとることができるのだと、僕も思う。

さらにいうと、思考には生きたモデルが必要だ。目の前のすぐれた思考を追体験することなしに、潜在能力が出現するなんてことはないのだ。数千年前の哲学者の書物が今でも読まれている利用はそこにあるだろう。

 

ひろちゃんの旅立ち

少し前に娘さんから、ひろちゃん(吉田弘二さん)の容態が思わしくないとのメールを受ける。今年になってから、コロナ禍で訪問を遠慮していたのだが、この数か月でだいぶ体調が悪くなったそうだ。それでこのところ何回かお見舞いにうかがって、先週の日曜日には、部屋にあがって少し話をすることができた。

ひろちゃんは、ほとんど食べ物を受けつけなくなって痩せていたけれども、午前中は一人で遠方まで車で出かけていたという。山登りの好きなひろちゃんは、高山のミヤマキリシマを見たがっていた。人と話した方が元気になるというので、僕もこれからは週に一回は顔をだそうと思った。

それが、金曜日の午後、ひろちゃんが亡くなったという連絡を受けたのだ。一昨日には兄弟と温泉に行っていたし、その日も家族が席を立っている間にすっと息を引き取ったのだという。とても残念だが、ひろちゃんらしいいさぎよい旅立ちだった。

今朝は、マスマルにある自宅からの出棺に立ち会った。見送ってから、久しぶりにヒラトモ様にお参りすることにする。6年前にヒラトモ様にいく林道わきの農園で奥さんに声をかけたのが、そもそも知り合うきっかけだったのだ。

昔の里人の考えでは、死後魂は、里山の上に集うものらしい。だとしたら、ひろちゃんの魂も、山頂のヒラトモ様のあたりにやってくるはずだ。僕は、ヒラトモ様によろしくお願いしますと頼んでみた。無神論者のひろちゃんも、毎日の暮らしを見下ろしていたヒラトモ様には親しみを感じていたはずだ。

帰り道は、目印のない雑木林の急な斜面を降りる。もう何十回とお参りに来ていても、一度も迷ったことはない。しかし、今日はまったく見慣れない林に降りてしまい、もう一度もどっても、見覚えのある道すらみつからず途方に暮れてしまった。なんとか抜け出したものの、どこをどう間違えたのか見当もつかない。

僕の願掛けが、ヒラトモ様の神域の力を目覚めさせたのかもしれないと思った。

 

 

ラーメン屋の味

僕は、カービィのように食べ物を何でもおいしく吸い込んでしまう人間なので、たいていの食べ物の美味しいか不味いかはあまり気にならない。

うどんとか、カレーとかの味に、そんなに大きな差があるとは思えない。とびきり美味しいとおもうこともあるが、たぶん空腹とか体調の関係が大きいだろう。

そんなことを考えていて、ふとラーメンについては、事情が違うことに気づいた。ラーメンには、自分の好みではっきり美味しいと感じるものがある反面、たいていのラーメンはそこまで美味しくない。はっきり不味いと思える店も多い。

職場に、学生時代にアルバイトながらチェーン店のラーメン屋の店長までしていた人がいる。あるとき、きびしく鍛えてくれたバイト先の店長が、店のカギを渡しながら、この店をお前に任せる、と言って、翌日から店にでてこなくなったそうだ。どうやらレストランの店長にキャリアアップしたらしい。

このラーメンの専門家といえる同僚に、僕の長年の疑問をぶつけてみた。

街にふつうにあるラーメン屋は、たいてい美味しくない。美味しかったら、このネットの口コミの時代ならたちどころに人気店になって行列ができるだろう。お昼どきにもさほど混まないような、ごく普通の店のラーメンは可もなく不可もなく、つまりは不味いのだ。

どうせ毎日作っているのに、なぜそれを美味しくする努力をしないのだろう。美味しくすれば確実にお客が増えるのに。これが僕には謎だった。

元店長の答えは明快だ。彼によると、毎日同じものを作って、毎日味見していると、それが美味しいのか不味いのか、自分でもなんだかわからなくなってしまうのだそうだ。これはなんともリアルな話である。さらに、その味を好んで食べに来てくれる常連がいれば、味を変えるわけにはいかなくなる。

ところで、元店長は、僕が地元で一番好きな店の味を、あそこは旨いと認めてくれた。ほっと胸をなでおろす。

 

 

 

 

 

 

同期会というもの

僕が、大学を出て最初に就職した会社にも、同期会というものがあった。4か月にわたる研修期間中、共同生活をしたり、販売実習で班別の競争をしたりで、同期の30数名のきずなは深まった。

おそらく研修担当の職員たちの示唆があったのだろうが、自主運営の同期会が結成されて、全員が全国の配属先に散り散りになったあとも、東京で同期会が開催された。僕も一度だけ参加した記憶がある。

遠方の参加者は交通費がかさむ。それらは、ホテルの宿泊代を含む一律の参加費として全員が平準して負担していた。お互いに会いたい気持ちが強かったし、転勤の機会は誰にもあるのでお互い様の所もあったろう。

僕が3年で仕事を辞めたときも、近県の同期が何人か心配してわざわざ話を聞きに来てくれた。当時は自分の行く末のことで感謝する余裕がなかったが、今考えれば申し訳なく、ありがたいことだった。

その後、東京に戻って塾教師をしていたころ、近所の大学の講義を聞きに行った際に、たまたま就職関係資料を見ていたら、僕が辞めた会社のパンフレットが置いてあった。そこには、僕の代の同期会が大きく紹介されていて、その会は同期の人数に因んで、たとえば「33会」といった名前だった。その人数の中に、僕が入っていたのか、いなかったのか。

それから10年も経たないうちに、その会社は本体を外資に吸収されたうえ、倒産してしまうことになるのだが。

 

誕生日の思い出

今日は、姉の誕生日だから、お祝いのメールをする。

昨日が母親の命日にあたり、姉にとっては、長年苦楽をともにしてきた母親が、自分の還暦の誕生日の前日に亡くなったのだから、どんな思いがあったのだろうか。姉はその年度いっぱいで会社員人生を全うして、昨年から退職後の生活を満喫している。昨年は海外旅行にも何度か行ったようだが、今年に入ってから、コロナ禍で身動きがとれないから、さぞ気がふさいでいることだろう。

僕の実家は4人家族で、家族それぞれの誕生日が、うまく四季に振り分けられていた。父親が3月、姉が6月、母親が9月、僕が12月。つましい生活をしている家族には、誕生日のお祝いがちょうど3か月起きのささやかなイベントととして、ちょうどよかったと思う。

今の家族は、妻が11月、僕が12月、二人の子どもが2月と3月で、ずいぶん寒い時期に偏っている。あたらしい家族の猫の九太郎までが、2月生まれだ。子どもが小さいうちは律義にお祝いをしていたが、最近では近いものどうしを兼ねてやったりしている。

今から振り返ると、僕が生まれ育ったのは、日本が高度成長から安定成長へと進む、まだ貧しさは残っていても活気のある時代の家族だった。僕の新しい家族は、オウム事件阪神大震災のさなかに誕生して、東日本大震災原発事故からコロナ禍にいたる、豊さはあってもどこか凋落の匂いのする時代の渦中にある。

くっきりとした時代の違いを受けて、2つの家族のありようはすっかり変わっているが、誕生日を祝うという習慣が変わらずにあるのはうれしい。

 

論理的ということ(その7:作文と大井川歩き)

日本人が例外的に論理性を身につけるための、ほとんど無意識に行われている方法について書いてきた。今回の発見はこれだけなのだが、ここで終わってしまっては、僕の作文らしくないだろう。

獲得したものは、失われていく。どんなに論理を誇った人も、やがてほころびが生じるようになって、勘違いや思い違いによって生活すらあやうくなっていく。そのことをどう考えるのか。

僕自身は、残念ながら幼少期の大量読書を経なかったこともあり、筋道の通った思考ができない。断片的な思い付きや、一時の感情に振り回されて生きてきた。そのことと、若いころから、作文を書いてきたこと、とくに中年過ぎてからいっそう強迫的に作文を書き続けていることをどう考えるのか。

最後に、大井川歩き。自分の生活圏に限定して、歩いたり、話したり、考えたり、調べたり、書いたりしようという思いつきと、論理性の問題とはどうかかわるのか。

村瀬さんによると、ボケといわれる現象は、時間と空間の見当識にくるいが生じることが大きな原因である。今がいつで、ここがどこなのかわからなければ、どんなに言葉の内部でつじつまのあっていることを言っても、それが意味のあるものとして受け取られることはないだろう。世界とのつながりという文脈の方から梯子をはずされたら、論理性はもろいものなのだ。

作文を書くことは、世界に小さな窓を開けて、そのガラスをきれいにふく作業に似ている。そのことで、少しだけ世界がよく見えることになる。論理性に代わるような、漸進的な世界の獲得方法だったのかもしれない。

しかし、言葉と頭による理解は、年齢とともに衰えていく。身体と体験による、土地との関わりに認識の比重を移していくのは、ごく自然なふるまいと考えている。お年寄りたちの生活も、時間と空間の見当識の血肉化した地元の土地や住み慣れた自宅に支えられているそうだから。

 

 

 

論理的ということ(その6:広松少年)

理路整然と、論理的に話せる人に対しての疑問から始まって、あれこれ書き綴ってきた。他の人から見れば、もしかしたら僕自身も理屈好きな人間に見えるのかもしれないが、僕は、彼らとは全く違う。違うからこそ、その違いが気になって、彼らのことが謎だったのだ。

僕は、人前で発言する場合には、事前にかなりの準備が必要だ。断片をつないで理屈にする作業をしておくことで、かろうじてその場で他人が聞いてわかる話となる。文章もそう。パソコンでの修正作業のおかげで、なんとか一つながりの文章を作成できるだけだ。

自分の中に、書き言葉をスムーズに紡ぎだし、それを一定の文脈にそってつないでいくための装置を欠いているのを明らかに感じるのだ。一方、そういう装置を内蔵しているかに思える人は、事前準備なく、一発で論理を紡ぐことができる。

自分なりに修練を積んで努力はしてきたが、やはりこの力を「後天的」に獲得するのは限界がある。感覚的な言い方になるが、おそらく小学生のそれもできるだけ早い時期に、「書き言葉」の大量摂取という「疑似磁場」を経験することが、この非論理的な風土の中で、首尾一貫した言葉と論理を運用するための不可欠の条件であるような気がする。

ここまで書いて、つい最近書いた哲学者広松渉の記事を思い出した。広松少年は、小学生の頃にすでに大量の戦前の左翼文献を暗唱できるくらい読んでいたというエピソードだ。むべなるかな。

 

 

 

論理的ということ(その5:少年少女世界の文学)

僕が子どもの頃、隣の従兄の家にあった全50巻の「少年少女世界の名作文学」シリーズに親しんでいたことは以前書いた。僕の場合は、ごく一部のひろい読みである。しかし懐かしいので、そのうちの二冊をネットで手に入れて、自分の書棚にならべて喜んでいる。

購入したのはソビエト編の五冊中の二冊なので、ゴーゴリからツルゲーネフトルストイドストエフスキーまで入っている。長編は部分的な紹介だったりするが、内容的には相当レベルは高く、フリガナは振ってあっても、二段組で500頁の分量はかなりのものだ。大人になった今でも十分に関心を持って読めそうだが、本を読むより本をながめるのが好きな僕が、この二冊を今後実際に読み通す機会はないような気がする。

友人の吉田さんが、小学校2年生の夏に、毎月二冊の配本で買ってもらうようになったシリーズは、これを30冊に編集しなおして再刊したもので、一冊の厚さは変わらない。おそらく小学校6年分の国語の教科書を合わせても、この一冊の分量にも達しないだろう。吉田さんは、およそ一年半の配本期間中に、全30冊に目をとおしたことになる。

これはとんでもない経験である。読書というと、まるで当たり前の穏やか振舞いに錯覚してしまうけれども、本来無味乾燥な活字の羅列に何時間も目を向けながら、その背後の原色の物語の展開を追っていくという行為は、きわめて異様な行為だ。長い人類史の中で、そんな不自然な行為が多くの人にとって身近になったのは、ごくごく最近のことにすぎないだろう。

こうして大量の「書き言葉」を身体に通す経験は、吉田さんの体内に、筋道だった日本語を奏でる溝のようなものを深く刻んだのだと思う。これが、のちの論理性の基盤になる。こう考えると、この「全集読破」というものが、根石さんの語学論における「回転読み」に相当するものであることに気づく。

 

 

論理的ということ(その4:回転読み)

前回の議論は、僕に、ある英語学習のメソッドを思い起こさせる。

それは、根石吉久という詩人・批評家の編み出した「回転読み」という語学学習法で、僕もすこしだけかじったことがある。たんなる音読ではなく、ある一文をマスターするために、文末と文頭をつなげて、まるでお経のように連続して何十回、何百回と声に出し続けるというものだ。これは、とても一見、とても異様な学習法なのだが、この学習法の背景には、根石さんの独特の語学に対する考え方がある。僕なりにその要点を紹介してみよう。

言語というものは、本来、それが生活の中で話され、言葉の無数のやりとりが繰り返される「磁場」の中でしか身に着くものではない。「磁場」を欠いた他国の、机上や教室の学習では、本来身につけることができないものなのだ。ネイティブと会話したり、教材を聞き流したりするようなスマートなやり方は、「磁場」なしでは無力である。

そこで、根石さんは、「磁場」に代わるものを人工的に作り出すような学習法を提案する。それが「回転読み」だ。ネイティヴなら幼少期から無数に繰り返す言葉のやり取りを、無理やりに一挙に体験させる意味合いがあるのだろう。ちなみに根石さんの定義によると、「磁場」抜きに机上で言語を学ぶ実践が「語学」である。

もし、論理的ということが、言語と同じように欧米の「磁場」において身に着くものならば、それを欠いた日本では、たとえば教室の中のやりとりだけでそれを学習することは難しいだろう。幼少期からの家庭でも、友人間でも、メディアの中でも、論理的でない話し言葉のやりとりが行われているのだから。

それでは、語学学習における「回転読み」のような、人工的な疑似「磁場」の体験法はあるのか。おそらくそれが、子供向きの文学全集などによって「書き言葉」を大量にインプットするという方法なのだと思う。