大井川通信

大井川あたりの事ども

林を出でて林に入り

東京から遠い地方に生活の場所を移してしまったから、卒業した学校の同窓生に会う機会はほとんどない。全国区のマンモス大学の卒業生ですらめったに会わないのだから、ローカルな小中高の同窓生とは無縁なのだ。

地方では、大学というよりも、出身高校による結びつきが強い。その暗黙の仲間意識を共有できないのが、少しさみしくもあった。

もっとも、僕は昔から、卒業や転職で離れた友人・知人と長く友人関係を続けるのが苦手で、たいていはやがて関係が切れてしまう。そもそも学校のような集団生活であまりよい思い出もない。だから、実際の同窓会にも参加しないのだが、不思議なもので出身校への愛着だけは人並みにある。

余談だが(というなら、ブログ全てが余談なのだが)、僕の人間関係の希薄さ、もろさ、奇妙さについてはずっと悩みでありコンプレックスだった。ようやく、冷静に自分を見て、できないこと苦手なことは仕方がないと思えるようになったのは、ごく最近ことだ。「発達障害」(的な概念や考え方)の普及には、それなりの効用もあるのだろう。

5年ばかり前、ある会議の後の懇親会で隣の席に座った同世代の男性と、ふと出身校の話になった。彼は父親の転勤で東京で育ち、都立高校出身だという。そういう人もいるだろうと聞いていると、なんと郊外の僕の母校の名前が出た。

しかも二学年下だから、同じ校舎で一年間高校生活を共有したことになる。その時は矢継ぎ早にいろいろなことを話したという。覚えていた校歌の一番を一緒に歌った。土岐善麿作詞の校歌を僕は気に入っていたのだ。

「林を出でて林に入り道尽きて又道あり/かがやく若芽ゆらぐ落葉/真理を真理を真理を求めゆくとき/おおひとりにあらず友は呼ぶ」

彼は、僕の職場の近隣で歯科医を開業していた。同窓会との関係が切れていた彼のために、名簿のコピーを届けてあげたりもした。彼の医院はなかなか繁盛しているようで、年に一度従業員を連れて旅行しているという話を聞いた。

今でもたまに彼の医院の前を車で通りすぎるとき、そのときのことを思い出す。僕がもう一度訪ねることは、たぶんもうないだろうけれど。

 

 

 

空き地と土管

月に一度の吉田さんとの勉強会。今回で27回目だ。継続は力なり。友人と会うのに規則的な「勉強会」という枠組みが必要であるというのは、発達障害的な僕の気質によるものだが、そういうこだわりによって、怠け者の僕が継続して何かに取り組めるという利点もある。このブログもそうだが。

今回は、子どもの通学路についてのブログを何本かまとめてレジュメを作った。

吉田さんは、別府という地方都市でテレビ好きな子どもとして育った。テレビに映るのは東京の街並みで、子どもたちが遊ぶのはきまって「空き地」でそこには「土管」が置かれていた。別府にはそういう場所はない。だから、それを都会的な風景としてあこがれていたのだという。

東京にはそんな空き地が本当にあったのか、と聞かれて東京郊外出身の僕が答える。

たしかに空き地はところどころにあった。古くからの住宅街には公園は少なかったけれど、それがなくて困らないくらいの空き地があって、そこが子どもの遊び場だったのだ。

現に僕の実家も隣の空き地(原っぱ)をまるで自分の家の庭みたいにして使っていた。幼稚園は道をはさんだ空き地をまるで運動場の一部みたいにして使っていた。野球好きの友人の家の前の空き地に集まってよく野球をしたので、その空き地を友人のあだ名で「ジョーケン球場」と勝手に呼んだりしていた。

ただ、残念ながら、どの空き地にも土管は置かれていなかった。おそらくもう少し都会で立て込んで土地が少なく、しかも土管の埋設工事が盛んだった頃の光景だったのだろうと思う。

ただ、近所の大きな社宅の中の公園には、土管を並べた遊具があって、その中で遊んだ記憶はある。だから、いまでも公園で土管の遊具を見つけると、その中に身体を押し込んで、暗くてひんやりとした感触を確かめたくなる。

 

絵本「笠ぼとけさま」後書き

近所に「笠仏」という地名があるのが気になっていた。

ある時、その土地を歩いていると、道の脇に石材を無造作に寄せて地面をコンクリートで固めてある場所が目に留まった。庚申塔にしては扱いがぞんざいだなと思ってよく見ると、その中に、六角形の石材の六面にうっすら仏さまの姿が彫られているものがある。風化の具合からいってもかなり古いものだろう。その傍らには、大きな丸い笠のような石も立てかけてある。

「笠仏」という地名の由来ではないかと頭をかすめたが、それではあまりにも種明かしがあっけないし、大切な地名の由来にしてはずいぶん無造作な扱いだ。

そのあとしばらくして、川のほとりで犬の散歩をしているご婦人に声をかけると、なんとあの石仏が寄せてある田んぼの持ち主だった。Yさんは昭和8年生まれ。あれは笠仏様だと教えてくれる。雨ごいのお祭りのときだけこの仏様に石の笠をかぶせていたそうで、ふだんは今と同じように笠をおろしていたらしい。

ただ、二十歳の頃に吉武からお嫁に来た頃にはすでにオコモリ(お祭り)はしていなかったが、まだお酒を供えてあった。10年くらい前(聞き取りは2015年5月)に田んぼの前の道を整備で広げたときに、離れて二つあった笠仏様を今のように寄せて、その時最後のオコモリをしたそうだ。笠の石は子どもがいじって危ないから、コンクリートで固定したという。(たしかに仏さまの彫られた石材はもう一つあるが、なぜ二つ目があるのかの理由は聞かなかった)

Yさんの紹介で、大正15年生まれのMさんからも話をうかがうことができた。ここの松の木で雨宿りをしていた馬子と馬が雷に打たれて死んで、石にはその時のひづめの跡が残っているという。雨ごいの話も聞いたことがあるそうで、戦前母親に連れられて、オコモリに出かけた記憶がある。重箱でお煮しめを食べたりしたそうだが、戦後にはオコモリはやらなくなったそうだ。

お二人の話に基づいて、今回の物語をつくることができた。最後のシーンで笠仏様を取り囲む石の神様たちの表情が暗くて恐いのは、妻が現状を見て感じたままに描いたためだろう。実際、人間たちからお参りされることもなくなった神仏は、少し恨みがましい姿に見えるのだ。

日本住宅政策三本柱

住宅の歴史に関する本を読んでいたら、戦後の住宅政策に三本柱というものがあるのを知った。敗戦による住宅不足を解消するために、1950年代の前半に相次いで打ち出された政策だ。

1950年(昭和25年)の住宅金融公庫法による、住宅ローンでの「公庫住宅」。1951年(昭和26年)の公営住宅法に基づく、低所得者向けの「公営住宅」。1955年(昭和30年)に誕生した日本住宅公団によって、団地ブームを巻き起こした「公団住宅」。こうした政策に基づく住宅の建設によって、戦後の住宅不足は、1970年前後に量的には解消する。

僕は、1960年代の東京郊外の住宅街で子ども時代を迎えた。住宅不足解消の歴史の真っただ中で生まれ育っていたわけである。だから、これらの歴史の記述は単なる知識ではなく、なるほどと思い当たることばかりだ。

昭和初めに開発された住宅街は、戦後しばらくはまだ空き地ばかりが多かったという。そこに、おそらくは「公庫住宅」を中心とした戸建ての住宅が建てられていったのだろう。僕の家の前の区画は数十戸の市営住宅が並んでいたが、やがて路地のように密集した市内の「公営住宅」は、コンクリートの集合住宅に建て替えられた。

住宅街の区画の外の畑地に巨大な「公団住宅」が建設されたのは、僕が幼児の頃だというから1960年代前半のことだろう。玄関の前で遊んでいた僕を、建設現場に向かう労働者たちが連れて行こうとして、母があわてて取り返したという話は何度も聞かされた。

この三本柱の以外にも、大量の従業員を抱える大企業は、リクルートのためにも社宅を建設したと住宅史の本には書いてある。なるほど、これはよくわかる。実家のあった住宅街には、今のように民間のマンションは見当たらず、集合住宅といえば社宅が多かった。それ以外は小規模なアパートがあるくらいだ。

朝日生命や住友火災、ブリジストンの社宅は大きくて、敷地内部の公園スペースを自由に遊び場として使わせてもらっていた。古く開発された住宅街には公的な公園は少なかったのだ。社宅に住む友人には転校による出会いや別れの思い出がある。

これらの社宅も、企業の合理化等によって、いつのまにか民間のマンションなどに変るものが多く、街から姿を消していった。

 

 

 

Hさんへの手紙

昨年11月にお会いしてから、いただいた資料の感想がすっかり遅くなってしまいました。言い訳になりますが、年末年始の長期休暇で書こうと予定していたところ、その期間完全に寝込んでしまい、正月明けもしばらく調子が戻りませんでした。年明けもバタバタしているうちに時間ばかりが過ぎてしまいましたので、年度末を一つの区切りとして、とりあえず筆をとってみることにしました。

一点目は、Hさんのいう二人称と三人称の問題があります。Hさんと同様に、僕もこの言葉をあくまで比喩として、使いたいと思います。Hさんの論考では、二人称に大きな比重を(というより全体重を)かけるものになっていると思います。さらに比喩をかさねれば、二人称を拡張して三人称を取りこむ(全三人称を二人称化する)という構想になっているかと思います。

ただ、僕としては、社会や差別や、およそ人間関係に関することは、三人称を、三人称のままに、どのように抱き込むのか、というあたりに核心があると考えています。さらにいい加減な比喩を使うと、2.5人称というような「距離」のある人間関係を、いかに自分の中に蓄えることができるか。

これは、実は自分の中で、S塾的なものに対するいわばアンチテーゼとして、自分の中で大切にしたいと密かに思ってきた格率でもあります。

Hさんの所に時々顔を出して、関係を続けたのも、もちろんHさんの人間的魅力によるところが大きいのですが、かつてのS塾とそのメンバーに対する「思想的意地」のようなものがあったのは確かです。関係がうまく行っているときやお気に入りの人間となら、だれでも対話や交流ができるだろう。真価が問われるのは、それが困難になったときの振舞いではないのか。

Aさんとの関係も、同じところがあります。今にいたるまで、友人関係というより、勉強会仲間というよそ行きの(2.5人称の)関係だったわけですが、20年間のつきあいで、不思議な信頼関係は生まれていると思います。

二点目については、やや角度や次元の違う話なので、聞き流していただけたらと思います。今の僕は、人間に限定した理論は、あまり興味をひかなくなっているところがあります。つまり、(たとえ何人称であれ)人間限定で解決がつくことがあるのだろうか、ということです。

具体的に動物や植物、自然などを理論的な最重要な要素としていれないことには、人間にかかわることも解けないのではないか。

実は今日も、およそ5時間、近所の里山の中を歩き回っていました。もともと鳥好きですが、今は動物にも昆虫にも鉱物にも関心が広がっています。家には最愛の家族として猫が二匹います。

人間は本能の壊れた動物であって、そのままでは生きられないから疑似本能である自我と文化(社会)を作りだした、しかしそれはあくまで偽物であるため、自然の本能のように調和的には働かず、様々な狂気と過剰と暴力を生み出さざるをえない、という単純なテーゼが、昨今の人間社会を見ているとまぎれもなく真実であって、これを超える人間論などないのではないか、という気がします。こうした人間が、襟を正すためには、何より自然と向き合う必要があるのではないでしょうか。

 

Yさんですが、年末には親族の人から意識を回復してリハビリを始めているという朗報がはいりました。しかしコロナもあって、まだ面会は許されていません。事情に変更があれば、またお知らせしたいと思います。コロナ禍はまだ予断をゆるしませんが、ぜひお身体にはお気をつけください。乱筆乱文はご容赦ください。

 

What と Way

マネジメントの教科書で、日本の組織は、部下への機会の与え方を支援の仕方において、弱点があるということを書いてあった。

肝心なのは、適切な課題(What)と同時に、それをいかにしてやるのか(Way)というコツを教えるということだった。そして、そのコツによって一通り課題ができるようになってから、初めて理由(Reason)を教えて自分で考えさせるのがいい。そうすると、次からはその理由に基づいて自分で仕事をすすめることができるようになる。だいたいこんな内容だったと思う。

これは組織の中の上下関係でなく、自分が生活の現場で独学で学んでいくときも役に立つプロセスであると思った。

たとえば、大井川歩きで、炭鉱の坑口跡を何年も探していたときに、里山の谷あいの炭鉱跡をいくら探しても何もでてこない。その時、ある炭鉱マニアのHPに坑口を見つけやすい場所として、谷に沿って上がったところ、という記述を見つけた。

素人考えだと地中に入る坑口は、地面の低いところにあるはずだという先入観があった。坑口探しの名人の「助言」にしたがい探索範囲を今まで除外していた沢の上部に広げると、あっさり古い坑口を見つけることができた。そうして実際の発見のあとに、なぜそうした場所に坑口が掘られているのかを、じっくり考えていくことになる。

今は、近所の低山の登山を見よう見まねで試みているところであるが、何度も道に迷う失敗を重ねながら、ネットでの先達の書き込みから学ぶことが大きい。その中でも、「峰をはずさないように」歩くというアドバイスが役に立っている。なるほど、峰はたいてい歩きやすい山道になっているし、山頂はまちがいなく峰をたどる先にあるからだ。一方峰から下りてしまうと、そこは手がかりのない迷路のような山林が広がっている。

そのほか、鳥の見つけ方なども、ベテランのアドバイスがあれば、かなり簡単に目当ての鳥に出会えるようになる。なるほどコツとセットでなければ、課題の成功はほとんど偶然に左右されることになってしまうだろう。

 

 

檸檬忌に梶井を読む

忌日には、一年に一回その人のことを振り返ることができるという効用がある。

というわけで、梶井基次郎(1901-1932)の89回目の忌日に、彼の本を手に取った。二年ばかり前、読書会で薄い短編集を読んだので、それに収録されていないものを選んで読む。

二年前は、梶井は思ったよりは良くない、「檸檬」(1925)がなかったら名前が残ったのだろうか、などとひどいことを考えていたが、今回は逆に、そんなに悪くないと思った。

梶井がこだわるのは、微妙な感覚のずれや錯覚だ。そこにだけ退屈な日常をこえた興奮や陶酔を感じることができる。しかしそれが錯覚である以上、一時的なものであって虚しく消えてしまうのが常だ。

「路上」(1925)を読むと、彼は高台から街を見下ろしたり、いつもと違う近道を歩いたりすることを偏愛しているのがわかる。高台からの俯瞰は、街の別次元の姿を見せてくれるし、新しい道は慣れ親しんだ街を異国のように錯覚させるかもしれない。

梶井はその錯覚や陶酔を、作品の中で病的にまで突き詰めているが、それは街歩き(大井川歩き)の楽しみでもある。今になって、僕はこのところないくらい大井川歩きに打ち込んでいる。それが梶井の作品への共感を引き起こしたのかもしれない。

「筧(かけい)の話」(1928)は、おそらく教科書か副読本で読んだものだろう。細かいフレーズまでよく覚えている。小林秀雄張りの難解なエッセイの趣はあるが、しかし聴覚の錯覚を描いたものに過ぎず、「魅惑」と「絶望」との例の二律背反を反復するのみである。

 

水落山登山

近ごろ、ようやく低山登山の面白みを知った。雑草が茂ると山に入りづらくなる。暖かくなるとマムシとかも出てきそうだ。今のうちに登ろうと思うのだが、週末の度にいやがらせのように雨が降る。気ばかりあせるが、こればかりはしょうがない。

マイルールでは登山と言えども、自宅から歩いて往復しなければならない。体力的にも時間的にも、直線距離で3キロくらいまでの場所が限度になる。これでも高低差のある土地を10キロ以上歩くことになるのだ。

今の家からは、この直線3キロ圏内に、標高250メートルくらいの山がいくつか並んでいる。このくらいの高さがあると、地図にも記されるような名前がついている。100メートルクラスの里山はいくつもあるが、たいていは無名の山だ。

昨年末に対馬見山に登ったときに、その隣の水落山へ登るルートを確認することができた。ネット情報では、対馬見山ほど急な坂ではないらしい。ようやく雨のあがった休日に勇んで用山から山に入る。

山道で珍しく人に会ったので声をかけると、先方も驚いている。間伐の作業をするという二人組だった。30代くらいの若い人だが、森林組合の依頼で、それぞれ飯塚と行橋というずいぶん遠方から来ているという。やはり人材不足なのだろう。この辺の山は、とても管理が行き届いているとはいえないが、まったく手を入れていないわけではないのを知って、ちょっと安心した。

斜面に根を下ろしている樹々に感謝しながら、幹に手をかけて慎重に登っていく。わずかに眺望が開けるところもあって、対馬見山が間近く見える。峰にたどり着くと、あとは歩きやすい。水落山は遠目にはなだらかな山だが、峰の両側は急傾斜の深い谷で、水落山の名前の由来がわかった気がした。この辺りの最高峰の念願の山頂にたどり着く。

そのあといろいろ山中で迷いながら、間伐作業のチェーンソーの音を聞きながら、山道を戻った。

 

春の花

例年より開花がはやく、サクラが盛りを迎えようとしている。満開のサクラは淡く上品で、毒々しさはないけれども、やはり異様な生命力を感じる。先人がいろいろな想像力をかきたてられてきたのも無理はない。

職場近くの民家の庭では、早いうちから梅の花がきれいだった。紅梅も白梅もともに美しい。「こっちは樹齢50年で、奥にある木は150年になります」とその家の奥さんが教えてくれた。今では地味でごつごつした幹と枝だけになって後景に退いている。

梅のあと目立ったのは、数こそ少ないがモクレンの木だ。モクレンは白く大きな花弁を全身に身にまとってよく目立つ。実家近くの住宅街にもあって、家族の会話にも出てきたのか、僕にもなじみのある木だ。そのモクレンも散りかけている。

散歩の途中で、庭先のユキヤナギの小さく密集した花の鮮やかな白さが目を打つ。ユキヤナギは確か実家の庭にもあったはずだ。

そうして桜よりもやはやく周囲を彩ったのが菜の花だ。河川敷や田畑はもちろん、街中でもあちこちで見かける。今年は菜の花の黄色がとくに目立つように感じられる。こちらは全盛期のまま、春の花の王者である桜の登場を迎えるのだ。

 

『百万ドルを取り返せ!』 ジェフリー・アーチャー 1976

 読書会の課題図書。いわゆるエンタメ(娯楽)小説というのだろうか。読書会で扱うのは珍しい。いつもより楽に読めて楽しかったのだが、読書会を待たずに、読了とともに満足してしまった気がする。ハリウッドの娯楽映画を観終わった感じに近いだろうか。

ストーリーは面白く引き込まれたけれど、あまりにご都合主義的な展開と、わかりやすいキャラ設定のために、登場人物について感情移入したり、あれこれ考えたりする余白の無い感じだった。読書会で議論するためには、作品を自分の読みで補ったり、読み変えたりする部分が必要であることに改めて気づいた。

読み始めは、ハーヴェイのペーパーカンパニーにだまされて入社し、友人さえ裏切ることになる新入社員のデイヴィッドが可哀そうに思えたのだが、複雑な友人関係の葛藤など描かれることなく、詐欺の片棒をかつぐという役回りを終えて退場した後は、誰からも顧みられない。登場人物たちは、人格ではなく、あくまで舞台にいる限りでの役柄でしかないと、ようやく思い当たる。

オックスフォードへの寄付も、ゴッホの絵も、名医による手術も遅かれ早かれ明白な詐欺であることが判明する。ハーヴェイの経済犯罪ほどの手際ではないから、どれも犯罪として捜査されて、娘婿のジェイムズも犯人として検挙されるはずだ。大恥をかかされ裏切られた思いのハーヴェイが娘婿のジェイムズを許すとは思えない。にもかかわらず、なんでラストではみんなあんなにのん気で幸福なのか・・・・というような「舞台」や「設定」の外部を詮索したりするのは、野暮なのだろう。

読書会の課題で、「あなたならどんな方法でハーヴェイから金を取り返しますか」というものが出たので、考える。 

ハーヴェイの主戦場である金銭欲の戦いでは、4人組は完敗だったけれども、各人の専門分野である物欲(絵画商)、健康欲(医者)、名誉欲(学者)、家族愛(娘婿)のフィールドで、それぞれハーヴェイを攻略することができた。

彼は手術直後に看護師にセクハラするくらい性欲が強いし、容姿にはかなりコンプレックスを持っているみたいなので、正攻法の色仕掛け(恋愛感情を信じさせて金を巻き上げる)が通用しそうな気がする。

現代を舞台にしているが、登場人物全員が自分のもてる能力の限りを使い、対等のプレーヤーとしてお金をめぐって争って、最後はめでたしめでたしという資本主義社会のおとぎ話みたいな小説なのだろう。ただし現代といっても、ネット以前の新聞と電話しかなかった時代の話で、今ならネットで検索さえしたら4人組のたくらみなど簡単に見破られそうだが。