大井川通信

大井川あたりの事ども

『手品と奇術の遊び方』 大野萬平 1973

永岡書店の実用百科シリーズの一冊。

古書店を見ていたら、店外に置かれてる棚の本のなかに見覚えのある背表紙のこの本を見つけた。手に取ってみると、装丁も挿絵も記事もみな懐かしい。僕が小学6年生の時の出版だから、まちがいなく手品のマイブームのさなかに購入して愛読した本だ。古い実用書で、店外に陳列されている本にしては状態もかなりいい。

子どものころの本の蔵書は、ほとんど失っている。数年前から、当時の蔵書をネットで探して少しずつ集めているのだが、この本のことは存在すらも忘れていた。ただ、手に取ってみるととても懐かしい。

高度成長に冷や水を浴びせるオイルショック直前の本だ。社会人たるもの忘年会や慰安旅行での隠し芸の心得が必要だ、という主張一本やりの前書きには、猛烈サラリーマンが社会の中心だった世相が感じられて面白い。自分の趣味や楽しみで手品をやる、という視点がまったくないのだから。

百近いイラスト入りの手品の解説は、ざっと目を通すとどれも記憶にあるが、僕が気に入って今でも使っている相性のいい手品は、この中では一つだけだ。まあ、手品とはそんなものだけれども。

今はネットが万能の社会で、実際にそのために役立つことも多いが、こんな本との出会いは現物を扱う古本屋さんならではだ。会計の時に、店の人にそんな話をする。

この古書店はひそかにひいきにしている店なので、訪ねたときには目を皿のようにしてすべての棚をチェックし、少なくとも一冊は買ってあげたいと思っていた。店外の棚でこの本に出会えたのも、こうしたお店との関わりのゆえでもある。

学生時代からの古本屋通いで、たいていは仏頂面の店主と口をきいた記憶はない。この古本屋だけは、毎回ではなくともこんなふうに会計時に一言二言言葉を交わす気になる。僕にはそれすらハードルの高い貴重な経験だ。

(書き終わって、古書店だけでなく、そもそも新刊書店で購入時に店員と言葉をかわす習慣がないことに気づいた。言葉が出ないのは、古書店のオヤジの不愛想のためだけではないようだ)

 

 

 

こんな夢をみた(観覧車と大竜巻)

夢は、いくつかのエピソードの羅列というのが真相に近いだろう。目覚めた瞬間に、直近のいくつかのエピソードを思い出して、それに無理にストーリーをつけようとする。多少無理があっても、偶然ストーリーとして筋が通ったときに、夢としてはっきり印象付けられて、それが記憶に残るようになる。ブログに記録するのもそんな夢だ。

うまく一つのストーリーとしてイメージを結ばない場合でも、ある一つの場面だけが突出して記憶に残る場合がある。今回は、そんなワンシーンを、別々の日に見た夢から二つ拾いだしたい。

一つ目は、観覧車に乗っている場面。足元がなくなる感じが本当に怖くて、乗ったことに心底後悔して目をつむっている。ふと目を開けると、観覧車のカゴが、丘の中断ぐらいのところでいったん観覧車から外れ、丘の上をぐるりと走って、また観覧車に戻るという仕組みになっていることに気づく。これは面白い。この場面だけは目を開けていればよかったと後悔する。

二つ目は、大竜巻。よくあるパターンだが、体内地図的には、生まれ育った街にある実家の一室であることは間違いない。ただ建物の感じは別で、もっと広く、顔見知りはいないが職場の同僚らしき人たちと一緒にいる。

家の外ではゴウゴウという音が響いて強風が吹いているようだ。僕は心配して、網戸越しに隣の空き地(そこは僕が子どもの頃には家が建ったはずなのだが)の上空を見上げる。するとそこに大きな竜巻が一本足を不安定に下ろすようにして近づいてくる。幸いこちらには向かわずに、空き地の上空を通り過ぎようとする時だった。不意に竜巻は方向を変えて、我が家の真上にさしかかった・・・

 

ホトトギスの初音

5月26日の早朝、ようやく今年初めてのホトトギスを聞いた。遠くから、ホッケッキョキョの繰り返しが小さく耳にとどく。その翌日の夕方も庭でホトトギスを聞く。

気になったので、この10年ばかりのホトトギスの初音の記録をざっとまとめてみる。ノートをひっくりかえせば、これ以外の記録も見つかるとは思うが。

2012年 5月28日  2014年 5月18日  2015年 5月13日

2017年 5月12日  2018年 5月16日  2019年 6月3日

 

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カラスの攻撃(続き)

翌朝、同じところを通ると、野原のさきで相変わらずカラスがしゃがみこんでいる。芝生の養生のために立入禁止のロープが張られている場所なので、とりあえず人は近づけない。同僚に昨日の武勇伝を話すと、さっそく見に行って、報告してくれた。

二羽のカラスが警戒していて、近くにいくと大声で鳴き、威嚇されたそうだ。飛べないカラスは小柄なので子供ではないか、という。

昼休みに見に行っても、状況は同じだった。カラスには気づかずに近くを散歩する老人にも、頭近くを滑空して驚かせている。この二羽の辛抱強さからすると、同僚のいうとおり飛べないのは二羽の子どもなのかもしれない。

偶然間近く見た時の姿を思い出すと、たしかにあどけない表情をしていた気もする。上手く羽を広げない様子だったけれども、何かのアクシデントで十分成長できないうちに巣から落ちたか、病気やケガが原因なのかもしれない。ただ、上空の二羽が下のカラスに近づく場面が見られないのは不思議な気もする。

その日の帰りの時も、翌朝も状況は同じだった。変化が起きたのは三日目の昼休みだ。今までの場所にカラスの姿が消えている。しかし上空のカラスたちはまだ警戒を解いていない。これはその日の帰宅の時も同じだった。

身を隠すところは見当たらない場所だけれども、どこかに上手くもぐり込んだのだろうか。二日間動けなかったカラスにそんな芸当はできそうもないが、そうでも考えないと、上空のカラスたちの行動が理解できない。

一応調べてみたが、野鳥の自然状態での怪我や病気の保護は公的には行われていないようだ。この公園のカラスは、弱ったハトを食べることがある。彼らの生死には、彼らのルールがあるのだ。ここで週末。この先を見届けられないのは少し残念なようでも、ホッとしたようでもある。

 

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小型黄金蜘蛛の隠れ帯

僕の家は、以前レッドロビンの垣根で囲われていたが、管理も悪いこともあって伸び放題の上、虫がついてかなり枯れてしまったので、3年ほど前、擬木のフェンスに替えた。そこだけは少し贅沢をして、擬木の板のうち一段をアルミの鋳造品を入れたのが我が家の自慢だ。

ある朝、玄関正面のフェンスに、白いバッテンが描かれているのに気づいた。白いチョークではっきり書いたような太字のバツ印だ。庭の内側だから、外部の人が書いたものではない。妻が庭仕事の都合で、何かの目印につけたのだろう。しかし何のために。

近づいてみると、そのバツ印は、塀の間際に張られたクモの巣の中心部の細工であることが分かった。そこだけ白い帯のようにクモの糸を密集させて長さ10センチくらいのバツ印をつくり、その中心に黄色っぽいきれいな小さいクモが陣取っている。

なんとも不思議な光景だ。あわてて写真だけ撮って出勤する。あとでネットで検索すると、コガタコガネグモ(小型黄金蜘蛛)の隠れ帯というものだとわかった。

隠れ帯は、白帯とも言われ、クモの種類によっていろいろな形があるが、それを作る理由はよくわかっていないようだ。隠れ帯という命名の由来は、その帯に身を隠すということのようだが、いかんせん帯自体がひどく目立ってしまっているから逆効果だろう。

家族にはそのままにしておくように頼んで、観察することにした。すると、数日後、クモの様子がおかしい。隠れ帯から外れて、足を縮めて糸にぶら下がっている。突くとゆっくり足を広げたから生きているようだ。巣の上部に、クモの抜け殻みたいなものがひっかかっているので、脱皮したところなのかもしれない。

しかし翌朝には落ちてしまったのかクモの姿は見当たらなくなり、その数時間後には隠れ帯を含む巣の大部分が取り払われてしまっていた。塀の間際で獲物がまったく取れなかったのかもしれない。脱皮の際にアクシデントがあったのかもしれない。

では、巣はなぜ消えてしまったのか。体験上、クモの巣は主のメンテナンスがないとすぐに劣化してしまうような印象がある。見事な作品だけに、繊細な維持管理が必要だということかもしれない。

 

 

カラスの攻撃

仕事の帰り、都市公園の出口あたりを歩いていると、すぐ近くの茂みでカラスがうずくまっている。少し近づいてみるが、どこかケガしているのか遠くまで飛ぶことができない。心配してみていると、近くの低い電線に数羽のカラスが集まってきて、ガアガアと激しく鳴き出した。初めはカラス同士のケンカかとも思ったが、状況がわからない。

電車の時刻もあるので不穏な様子のその場を離れて、歩道を歩き出したところだった。不意に頭の近くに鳥の羽音がして、羽ばたきの風が頭をかすめた。こんな時は混乱して後ろを振り向くこともできない。カラスが街路樹伝いについてきているのだ。何メートルか歩いた場所で、また同じ攻撃を受けた。

子育て中のカラスの巣の近くでカラスに威嚇されることは聞いたことがあるが、ここは歩行者が多い道沿いで近くに巣がありそうもない。考えられる理由はこうだ。

傷ついて動けない仲間の近くにいた僕を、彼らは仲間への攻撃者ととらえたのだろう。仲間の助けを求める声でやってきた彼らは、僕をターゲットに絞って追い出しの攻撃を開始したのだ。都会のカラスだから、人を必要以上に恐れないところがある。

攻撃を受けるのは、ある意味光栄だが、あのケガのカラスがちょっと心配。

 

 

コロナ感染から一年/入院患者に手を振る

あの激動の一か月から一年が経った。この「事件」のためにたくさんのことを考えたし、これをきっかけに自分で動いたことも多かった。

初心を忘れないために、死線をさまよい治療に苦しんだ病院を訪ねてみる。リハビリの歩行訓練の途中にいつも窓から見下ろしていたコンビニの駐車場に車をとめて、病棟を見上げながら、早朝の病院の周囲を歩いた。

実際に治療を受けたコロナ病棟の窓を目にすると、リアルに思い出すことが多い。その場に立ち会うということは決定的に大切だ。思ってもみない、こんなハプニングもあった。

コンビニの駐車場に戻って見上げると、一般病棟の廊下の突き当りの窓に、かつての僕のように外を見下ろしている患者の姿が見える。遠くの窓だから、実際に入院をした経験でもないと、下界の住人は患者の存在などに気づかないだろう。その患者はすぐに姿を消したが、その二つ上の階の窓に、こちらをじっと見つめるピンクの入院着の年配の女性らしき存在に気づいた。

思わずこちらからも見つめ返すと、突然その患者さんが手を振ってきたのだ。僕も思わず手を振り返して、とっさに激励の意味で、両手で大きく〇の形をつくり、それから二回右手のこぶしを振り上げるガッツポーズをした。

同病相憐れむではないが、お見舞いも許されない今の状況の入院患者がどんな気持ちで窓の外を見下ろしているかが、僕にはわかるような気がしたのだ。彼女の方も、病院に関心をもって見上げている僕の方の事情を、さとってくれたような気がする。元入院患者かあるいは患者の家族か。

まったく見知らぬもの同士の、一回限りの奇妙なコミュニケーションではあったが、このエールの交換に意味がないとは思えないのだ。

 

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アーケード街でライブを聴く

あらためて自他の身体を軸に据えて、いろいろ考えたり生活したりしようと思っている。自分の身体を新しい環境にさらしたり、他者の身体とかかわらせたりすることに意識的であろうと試みている。新しい身体経験を通じて発見したことを言葉にして、自分の言葉の領域を豊かにできたら、とも。

理屈はさておき、今日は、少し離れた街の大きなアーケード街に出向いた。昔栄えた街だけれども、かつて三つあったデパートも閉店して、縦横に広がるアーケード街もシャッターが目立ち、閑散としている。

そこで街おこしのイベントがあって、妻が仲間とアクセサリーの店を出すことにしたのだ。テーブルや商品の搬入のあと、いつうもより多少賑わいのあるアーケード街をあるいていると、小さなステージで音楽イベントをしているコーナーがあった。

背の高い若者がラップ風の歌をうたっている。地元で活動しているミュージシャンらしいが、ファンの女の子らしき姿は一人しか見えない。その隣で白髪のおばさんが無表情に身体を揺らしている。キッチンカーで買ったものをテーブルで食べる家族連れが、聞くともなしに聞いているくらい。露店の人たちは、まるで関心を示さない。

ただ、若者も声量が小さく、迫力不足で、自分の言葉で場を制圧してやろうなんて思いはないみたいだ。言葉数は多いが、意味はとれない。今風の曲のリズムとメロディは聴きやすく、すぐ近くのベンチにすわって楽しむことにする。

若者は前後左右にステップを踏んで歌うのだが、それも平凡な動きで、アーケード街の秩序を乱すものではない。無関係に行きかい、無関係にふるまう商店街の人々のなかで、彼のパフォーマンスは、勝手さのレベルで、妙にこの場になじんでいる。

何十年もの間、栄枯盛衰と人々の喜怒哀楽を包み込んできたアーケード街のふところの広さを感じる。一方、この場にいらだつこともなく、与えられた場にふさわしい振舞いをする今時の若者のやさしさも感じる。

彼の出番が終わり、脇のテーブルで新譜だというCDを買った。僕以外でそこに並んだ人はなかった。購入を素直に喜んでくれる彼に激励のグータッチ。

無銭の聞き逃げはしたくない思いで購入したCDだが、帰りの車の中で聞くと意外とよいものだった。表現したいものがある人なのだろう。言葉の放射には意味があり、自分の血肉としての言葉が刻まれていた。か細い声量が妙にリアルでくせになる。いじめをテーマにした曲は、実際にそういう体験から絞り出したものなのだろう。その一節。

「自らドブにつかる気持ちで学校に通った」

 

 

擬態を考える

昆虫の擬態について考えると、訳が分からなくなって、途方に暮れてしまう。しかし、今回は「カレハガ」が見事な擬態を見せてくれたのだから、そのことを考えずにはいられない。僕が考えられる範囲のことをメモしてみよう。

たとえば、僕の好きな蛾のオオスカシバは、とても長い口の管をもっていて、空中で上手にホバリングしながら、花弁の奥深くの蜜を吸うことができる。こういう実用的な進化ならば、そのプロセスが正しくわからなくても、なんとなく理解や共感ができるような気がする。

その蛾だって、もう少し口の管が長ければもっと蜜がすえるのに、と思ったかもしれない。思ったくらいで口の管が伸びるとは思えないが、うんと口を前に押し出す動作の繰り返しが、精神一到何事か成らざらん、の結果を生んだかもしれない。口の管の長い突然変異の個体が生存上有利で、より多く生き残ったということもありそうだ。

しかし、擬態はどうだろうか。その蛾自身の内側から、「枯葉そっくりになりたい」という思いがでてくるのか。そう考えるためには、枯葉に似れば、鳥などの天敵の攻撃を回避できる、という人間並みの思考ができないといけないが、そんなことはありえないだろう。

仮に突然変異で多少枯葉に似た個体が生まれたとしても、そちらの方が生存に有利ということにはならない。仮に擬態が有利に働くとしたら、捕食者の目を見事にだますくらいの完成度が必要だ。しかも他の無数の種類の蛾が、とくに枯葉に似ていなくても立派に生き延びているのだ。

カレハガがとまる姿は、何枚かの枯葉を組み合わせてテントを張ったみたいで、およそ昆虫には見えない。この見事なパフォーマンスをプロデュースできるのは、カレハガ自身ではなく、カレハガと捕食者と枯葉との関係を外部から見通すことができる位置にいて、カレハガの擬態の完成に執念と喜びを感じるような「第三者」だけである。

自然には、こうした「第三者」が間違いなくいる。この結論は覆らない。では、この「第三者」とはどんな存在なのか。僕が途方にくれてしまうのは、ここから先だ。

 

 

カレハガの擬態

僕の家の駐車スペースは、家屋の北側にあって、隣家の敷地(一メートル以上高い)との間に挟まれているから、少し湿っぽい。だから時々、珍しい昆虫がやってくる。

車の乗り降りの際に、家の壁板に枯れ葉が引っかかっているのに気づいた。次の乗り降りの時にも、まだ付いたままだったので、何気なく手で払おうとして思いとどまる。

これ、もしかして蛾かもしれない。そう思いながらも、どう見ても枯れ葉にしか思えない。ただよく見ると、前足らしきものの先端が枯れ葉みたいな羽の部分から少しはみ出している。気持ち悪かったので、ひとまずスマホで写真をとって無罪放免にした。

図鑑で調べると、カレハガ(枯葉蛾)だとすぐにわかった。とにかく見事な擬態である。羽の色合いやギザギザが枯葉に似ているなんていうレベルではない。どういう羽の畳み方をしているかわからないが、とにかく蛾らしい形状がすっかり隠されている。頭や足やお腹の部分をすっかり隠して、枯れ葉でテントを張ったみたいな姿に化けているのだ。

以前、同じ場所でイシガキチョウを見つけて驚いた。事故か何かでボロボロになった瀕死の蝶かと思ったが、それが立派な完全体だったのだ。

身近な虫もまだまだ面白い。