大井川通信

大井川あたりの事ども

コロナ禍の風景(観光地編)

コロナ禍も3年目に入って、やや終息の兆しを見せている。ちょうど一年前に、家族3人で感染して、僕自身重症一歩手前までいっているからその恐さはよく知っているけれども、なんとなく人間とその社会がウイルスとの共生のプロセスに入ったような気もする。外国人旅行者の受け入れの再開も検討されていると聞いた。

元に戻るとなると、今の非常事態の風景が名残惜しくもある。観光地で有名な某神社に立ち寄ると、夕方とはいえ、かつては溢れかえったアジア人観光客の人並みはなくて、閑散としている。クスの大樹が並ぶ境内にも、人っ子一人いない。照明だけが、太鼓橋や朱塗りの建物をあやしく照らしている。夢の中のような不思議な光景だ。

これではこの街の経済は回らないだろう。しかしコロナ禍は、資本主義下の経済を止めるという信じがたい離れ業を演じてみせた。ふだんなら僕が生涯出会わないような静謐な時間の隙間をのぞかせてくれたのだ。

僕個人でいえば、よいこともあった。定年前の二年間、本当なら仕事上の交際や飲み事が多いポジションにいたけれども、それらがすっかりキャンセルされたのだ。酒が飲めずに宴会が苦手な僕には、とても過ごしやすい時間だった。コロナ禍の先行き不透明な環境下で、そんな旧態依然の振舞いよりも、本来やるべき仕事が評価されるようになったのも、僕には居心地が良かった。

まあ、こんなことを言えるのも、命あっての物種、ということか。

『吾輩は猫である』を読み通す

読書会の課題図書。

高校三年の受験勉強の息抜きで、なぜかそれだけ手元にあったポプラ社版少年少女文学全集の『吾輩は猫である』(上巻)を繰り返し読んで、笑いのセンスを磨いた。その後何度か全編読み通そうとするも挫折。今回読了して、やはり小ネタの面白さは前半に詰まっていると思った。

苦沙弥による「巨人引力」の翻訳や天然居士の墓碑銘の朗読。迷亭の首くくりのエピソード、寒月の俳劇に東風の新体詩。あげ出したら切りがない。

後半部分でいうと、最後に近く、えんえん30ページ以上(全体の7%)にわたって、寒月が「ヴァイオリンを習い出した顛末」を語る場面が圧巻だ。苦沙弥オールスターズの面々がそれぞれ個性的に茶々を入れる様子と、それに平気で受け流す寒月が面白い。

その日夜が更けてからヴァイオリンを購入するつもりの若き日の寒月が、日中何度寝ても日が落ちずに、同じように起きて柿を食べるシーンを繰り返す語りは、とてもシュールで現代的。アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』のエンドレスエイトのループを100年先取していると思った。

しかし、この小説に熱中していた18歳の自分は、ようやく後半部を読了するのが42年後になるとは想像もしていなかっただろう。

 

日向ぼっこの二人

やや古い話だけれども、ゴールデンウィークに長男が戻ってきて、思ったより長く家に泊まった。元の長男の部屋を次男の部屋にしてしまったので、もう自分に戻る場所はない、なんて文句を言いながら、次男の部屋に布団を敷いて仲良く並んで寝ていた。

一昨年の再就職後に資金をためて、昨年秋に念願かなって福岡市の中心部の新築のワンルームマンションに引っ越していった。再開発された道路に面していて、ロケーションもいい。8階で眺望もいいから満足していると思ったが、日当たりがあまりよくないという難点があったようだ。

長男が育った我が家は、考えてみれば、日当たりと風通しはとてもよかった。一階のリビングとそのちょうど真上の長男の部屋は、南東を向いていて窓も大きく、一日中、日が陰らないし、傾斜地の住宅街だから、遠方まで見晴らしもいい。

長男は、リビングの前のデッキに椅子を出して、日光浴を始める。今までそんな姿を見たことはなかったが、無意識に身体が太陽を求めているのかもしれない。すると、次男もその隣に椅子を持ちだして、並んで日光浴をはじめる。

20代になった兄弟のこんな様子を見るのは、親として嬉しいようで、どこかくすぐったい。あまりいい父親ではなかったと思うが、両親が亡くなったあとも、障害というハンデをもった弟と仲良く助け合って生きて行ってもらいたいという思いから、兄弟の関係づくりの邪魔だけはしないように努めてきた。その思いが実を結んだみたいで。

 

 

 

銅像ぐるぐる

僕の実家の近所には一橋大学があって、今のように校舎が整備される前だったから敷地に余裕があり、公園兼野原兼林の子どもには絶好の遊び場だった。

国立大学の伝統校だから、キャンパスのあちこちに、功労者の銅像がある。林の奥には高い石の台座の上に立つ立像があったから、子どもの頃その周りをぐるぐると回って、追いかけっこをしたりして遊んだ記憶がある。

今の職場の前には、立派な都市公園があって、池や築山や花壇や林や周回路を備えている。こちらの方がさすがに整備が行き届いているけれども、一橋大学のキャンパスにどこか似ている雰囲気があって、僕は以前から昼休みに歩き回るのを楽しみにしていた。

ここにも銅像があるが、その規模は大学の比ではない。亀山上皇日蓮上人の巨大な銅像で、日露戦争の時期に建てられているから、元寇を意識したものだろう。今は県庁の建物で眺望をさえぎられているが、像の視線は真直ぐに玄界灘を見据えている。

この二つの像も台座の周囲を回れるようになっている。先日何気なく公園の話を妻にしたら、公園の近所で育った彼女は、いとこたちと一緒に遊びに来て、二つの銅像の周りをぐるぐる駆け回った思い出があるという。この公園が、彼女にとって僕の一橋大学みたいな場所だということを知って、ちょっと不思議な(別々の時空間が不意にクロスするような)気分になった。

しかし銅像があったらぐるぐる回るのは、どこの子どもでも共通なのか。

 

 

寺山修司の三首

詩歌を読む読書会では、課題図書の中から三作品を選び、順番にそれを披露していくことになる。他の参加者も、それについてコメントを求められるから、参加が5人でも、合計15作品について、すべて自分なりの批評を加えることになる。これにはかなり鍛えられる。その作家に対して、軸となるような理解をもっていないと、臨機応変にコメントができない。

だから作品の選定も、単に自分が気に入ったというだけではなくて、それについて何か有意義なことが語れることが条件となるし、他の参加者にとっても語りやすい、解釈に広がりがある作品であることが望ましい。

また自分の順番までの間に先に選ばれれば、候補を変えないといけないし、その場の流れで、同傾向の作品を続けたり、または雰囲気をがらりと変えたりといった配慮も必要となる。

そういう様々な配慮の中で、今回僕の選んだ三首プラス一首はこれです。

 

地下水道をいま通りゆく暗き水のなかにまぎれて叫ぶ種子あり

間引かれしゆゑに一生欠席する学校地獄のおとうとの椅子

床屋にて首剃られいるわれのため遠き倉庫に翳おとす鳥

青麦を大いなる歩で測りつつ他人の故郷を売る男あり

 

四首目は、候補に挙げながらも実際に選ばなかった作品。故郷が売られるという芝居がかった情景設定はまさに寺山ワールドだけれども、大股で歩く男の姿がどこかさっそうとしていて、湿っぽさはない。 



カミソリの下

詩歌を読む読書会で、寺山修司の歌集をあつかう。昨年末ベンヤミンからの連想で寺山修司のエッセイを読み返してみたり、競馬のマイブームにより寺山の競馬論に手を出したりしていたところだったので、ベストのタイミングだった。

まずは、ずいぶん昔からもっている集英社文庫の短歌俳句集を読み返してみるが、以前の印象通り、いいと思える作品が少ない。解説で漫画家の竹宮恵子が、短歌は「一番短い寺山さん」だから好きだと書いているが、いい得て妙で、どんなに圧縮されてもそれは寺山ワールドなのだ。

東京と地元とのとてつもない距離。戦死した父と共同体に縛られる母親と親族。敗戦体験と戦後復興期の猥雑さ。それらのイメージが、現実というよりも鋭い虚構として立ち上がり、舞台の上でのように立ち振る舞う。これらは、エッセイや演劇として十分に描かれるもので、枝葉を切り取った短歌ではいかにも短かすぎるのだ。

それでも、印象に残る歌はある。これは、その一つ。

 

床屋にて首剃られいるわれのため遠き倉庫に翳おとす鳥

 

床屋で身動きがとれずにカミソリで首や顔をそってもらう時間は、気を許してしまえば実に気持ちがいいものなのだが、しかしどこか不穏な危機の瞬間でもある。遠い倉庫に影を落として飛ぶ鳥は、不安な運命の象徴だろうか。

僕は、長谷川龍生の名詩「理髪店にて」を思い出した。あの詩では、床屋での顔そりに対比されるイメージは、深海に沈む軍艦だったけれども。

 

 

ooigawa1212.hatenablog.com

 

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働く老人

JRでの通勤は、8年ぶりくらいとなる。その時は一年だけだったから、その前というともう十数年前のことになる。10年ひと昔とは言うが、今の時代はさらに時のスピードが加速しているだろう。

通勤の電車内の風景で、明らかに変わったと思える点がある。通勤時間にスーツを着た勤め人らしき老人の姿が増えていることだ。昔だったら通勤電車に揺られることはなかったはずのお年寄りが、ごく当たり前に車内にいる。

かくいう僕も、自分では若いつもりでも、この老人たちの仲間になるだろう。30分強の乗車時間でも、本気で座りたいと考えたり、またこうして立っているのが運動だと考えたり、体力の衰えは明らかだ。

僕の父親は、当時55歳で定年退職したあと、同じ会社で60歳まで嘱託で勤務し、再就職して68歳まで働いていた。だから68歳まで働くのが、なんとなく僕の目標となっている。父を超える、ということだろうか。やはり親の影響からは逃れられない。

 

 

 

『おなおしやのミケおばあちゃん』 尾崎玄一郎・尾崎由紀奈 2022

先日の勉強会で吉田さんが次回は駄菓子屋論をやると予告してくれた。うれしいのだが、振り返ると東京の新興住宅街に育った僕には実はちゃんとした駄菓子屋体験がない。学校近くの二軒の小さな文具店は、食べ物やオモチャも扱っていて駄菓子屋風ではあったが、やはりメインは文房具である。

近所の小さなパン屋で駄菓子を買っていたが、そこはやはりパン屋でオモチャ類は扱ってなかった。隣町の「おっさんの家」は僕たちにとっては伝説の駄菓子屋で、壁一面にオモチャは吊るされていたが、駄菓子の販売はなかったと思う。

話がずれたが、標題の絵本は、昔ながらの(僕の知らない)ちゃんとした駄菓子屋が舞台である。古くからの商店街に店を開いて、両隣は床屋とパン屋だ。「谷中ぎんざ」の看板も見えるが、実在の商店街をモデルにしたのだろうか。

駄菓子屋では人間の「はるばあさん」が店を仕切っているが、床下では、猫のミケばあちゃんがオモチャの修理(お直し)の店を開いている。ジュースのビンが並ぶ床下は、ミケばあちゃんの商売道具と古いオモチャがぎっしりと収納されていて、床上の店に負けないくらいにぎやかだ。

こんなふうに人の暮らしと動物やモノたちの存在が対等に扱えるというのが、絵本の良いところだけれども、日本家屋に床下のような出入り自由なフリースペースがあるからこそ成り立つ物語だろう。

やがて駄菓子屋に店じまいの危機が訪れる。その時、ミケばあちゃんと古いオモチャたちの活躍やいかに。

 

消防用水のゲンゴロウ

休日の夕方、ほとんど期待もなく、大井を歩く。もう暗くなるし、単眼鏡をもってはいても、鳥を見る機会もないだろう。マスマルの集落をぐるっと回っているときだ。

道路わきには、消防用水のための小さな池があって、汚い水がたまっている。周囲は鉄条網で囲われ、四面も底もコンクリートで固められている人工物だから、今まで中を気にしたことがなかった。せいぜい、ミズスマシがいるくらいだろうと。

それがふと、気になってのぞいてみた。水はドロッと汚れた感じにたまっている。しかしよく見ると、素早く水面に姿を現すものがいる。それもかなりの数。その泳ぎから、見間違えようのない、ハイイロゲンゴロウだ。

夏場に大井の田んぼや、田んぼ脇の水たまりに出現するハイイロゲンゴロウが、その他の時期にどこで生息しているのか疑問だった。小さなため池はいくつかあるが、やや遠方だ。夏場だって、田んぼは定期的に水抜きされる。

消防用水は盲点だった。いくらハイイロゲンゴロウが命強いとはいえ、コンクリート製の水槽の中で生活できるとは思えなかったのだ。5月初旬に活発に活動している個体だから、おそらく冬越ししてきた成虫にちがいない。来年はもっと早くから観察したいと思った。

すると、コンクリート製の消防用水は、大井だけでもあと二か所はあったことを思い出す。足早に公民館まで歩いて、その脇のやや小ぶりな消防用水をのぞくと、数は少ないがハイイロゲンゴロウの姿を見つけることができた。和歌神社の入り口の消防用水では、もう水面が暗くなっているせいもあって見ることはできなかった。

消防用水にいるくらいなら、むしろここでは神社の池の方にいるはずだ。人間の水利の利用と自然の加工に生息環境を失いながらも、なんとかしぶとく生き抜いてきたハイイロゲンゴロウ。わずかに残された水のありかを巧みに利用する姿にあらためて感心する。

 

 

こんな夢をみた(ビッグビジネス)

たぶん中国の大きな会社のワンフロアなのだと思う。薄暗い部屋に、ソファーがいくつも並んでいる。僕は相棒と一緒に、大きなビジネスの交渉に来ていた。相手の中国人の長老とは、話はほぼまとまりかけていた。

長老は、紙に何かを書いている。三つの〇を周囲に書いて、それがそれぞれ動物を表しているようだ。タヌキとか、イタチとか。〇の間に線を引っ張って説明するのだが、それが何かのたとえ話になっているようだった。経営やビジネスの極意のようで、なるほどと僕たちはうなずいた。

長老が席を外すと、次に若くきれいな女性が現れた。デザインが専門ということで、これから具体的にビジネスの話に入っていくのだろう。どこかで会ったことがあったような気がしたので、名刺交換のときにそのことを言ったが、向こうは覚えていないようだった。相棒はデレデレになって、連絡先の交換とかしている。

気持ちはわかるけど、と僕。今はこのビジネスを成功させるのが第一で、どんなワナがあるかもしれないから目がくらんじゃいけない。納得した同僚にむかって僕は続ける。この仕事が成功すれば、僕たちの評価も一変し、今の組織を離れることもできるだろう。成功者としての道が開けるのだ。

僕は、いままで自分がやってきた、小さくてどうでもいいような仕事を次々と思い出していく。あんな過去とはおさらばだ・・・そうして目が覚めた。