大井川通信

大井川あたりの事ども

押す/押さない

定年後は仕事をしないという同年齢の知人にその理由を聞くと、「押し活」に専念したいからということだった。ロックバンド「エレファントカシマシ」のファンで、全国のライブにも参加しているという。

もうだいぶ前に、アイドル界隈で、推しメンという言葉を使うことを知って、うまいことをいうなと感心したことがある。推しメンとは、グループの中で特に応援する(押す)メンバーということ。グループ全体のファンなら「箱推し」になる。

もともと「一押し」という言葉があるくらいだから、推薦したり応援したりする意味で「押す」を使うのは従来からの用法で、特別奇異ではない。しかも、ある程度重量のあるものを力をこめて「押す」という語感と、アイドルやアーティストに対して時間やお金をかけて応援するという体感とはちょうど釣り合っている。だから、この言葉は、一部のオタクたちをこえて広まってきたのだろう。今では、すっかり市民権を得た感じがする。

メディアを通じて「押せる」対象があふれているという現象もあるだろうし、それが商売のタネになるから、様々な「押す」ための活動が用意されてきているというのもあるだろう。「押し」への愛を個人的に発信したり、仲間と語り合う機会や手段も豊富にある。経済的に余裕さえあれば、先ほどの知人のように、押し活が忙しくて仕事をしている暇がないということも十分成り立つのだ。

自分以外の誰かに対して憧れたり、好きになったり、心を傾けたりすることを「押す」というならば、人間は本質的に「押す」存在といえるだろう。「押す」以上、身近な人間を対象にすると、それは圧力や圧迫を生む。

かつてはそれが当たり前だったのだけれども、個人の自由意志やプライバシーが尊重される社会では、他者を一方的に「押す」行為は忌避されるようになる。度が過ぎればストーカー扱いされることになるだろう。メディアを通じた「押し活」がさかんになるのには、そんな背景もある。

もっとも「押し活」にも節度が要求される。アイドルを本当の恋人と思いこむような「ガチ恋」は未熟な振舞いとして軽蔑されるようだ。

 

久しぶりにSF映画を観る

ワクチンの副反応で、関節痛がして体調がよくない。自宅で静養していても、本を読んだりする集中力がない。ふと思いついて、ネットで映画を観ることにした。映画のビデオなら特別な集中力がいらないし、体調の不調を一時忘れることもできるだろう。

ネットの契約でたくさんの映画を観ることができるのだが、このところ映画のビデオを観るという習慣を失っている。もともと小説を読むよりずっと僕には近しい行為だったのだけど。

なんとなく直感で『ライフ』という2017年公開のSF映画を選んだ。地球を周回する軌道上の宇宙ステーションが舞台。そこに火星から生命を含んだ土壌のサンプルが届けられる。以下ネタバレあり。初めクルーは宇宙生命という歴史的な発見に喜ぶが、その生命体は急速に成長し狂暴化して、一人一人の命を奪っていく。

宇宙ステーションという密室の中で、限られた空気、水、燃料という生存条件が失われていき、人間の劣勢が明らかになる。最後の砦は、この外敵を地球に侵入させないこと。そのために残された二人は自己犠牲的な決断をする。その試みが成功したかに思えてホッとした瞬間、SFホラーで定番のどんでん返しがある。

いつかどこかで見たことがあるような定番のストーリー展開は地味だけれども、王道の良さはある。宇宙ステーション内部の無重力の様子や機材などが、従来になくリアルに撮られているのが売りかもしれない。カメラは、常に物語の核心の場面を写してくれるから、観る側はその臨場感から気持ちをそらすことができない。

暗く絶望的な「密室」の中に観る者を閉じ込めて、気持ちを覚めさせないことに全力をあげているといえる。脱出用の宇宙船の発射という場面のあとで、初めてカメラは場面の核心から遠ざかるが、解放の気分にひたる観客には、それが不自然には感じられない。そこに、最後のどんでん返しを仕込む余地が生じるのだ。

 

ブリキのおもちゃ

少し以前の話だが、先月の吉田さんとの勉強会で、食玩のブリキのおもちゃのミニチュアを持参した。その前の月に横山光輝の漫画のキャラの食玩を紹介して盛り上がったことに味を占めたものだ。

もう二十年近く前になるが、食玩(玩具がおまけについたお菓子)を買い集めていた時期があり、かなりのコレクションになっている。もちろん背景知識の点で吉田さんに敵うことはないが、それを勉強会の場で紹介しつつコレクションの整理を兼ねることができる。吉田さんに譲れるものがあれば、有効活用にもなる。

今回のテーマはブリキのおもちゃなのだが、駄菓子屋のスペシャリストというべき吉田さんは、意外なことにブリキのオモチャには縁がなかったという。たしかにブリキのおもちゃは、子どものお小遣いでは手が出せない「高級品」だったかもしれない。

僕自身、幼児期に買ってもらったブリキのおもちゃは二つしか思い浮かばない。一つは鉄人28号で、ゼンマイで前に進むことができた気がする。もう一つは、天井からヒモで吊るしたゼロ戦で、ゼンマイのプロペラを回すとぐるぐるとその場で旋回した。

食玩のミニチュアには二種類あり、当時のブリキのおもちゃを同じ材質で小さく作るものと、プラスティックで再現するものだ。質感は前者だが、細かい再現は後者でないと不可能だ。

一番のお気に入りは、当時の鉄人のブリキのおもちゃを正確にプラスティックで再現した作品だ。原型がブリキだから、実際の鉄人からずいぶんとデフォルメされている。身体が角ばっているし、頭部も大きすぎる。しかし、今の僕にもこれは問題なく鉄人に見えるのだ。子どもたちの見立ての力と想像力が、おもちゃの再現性の甘さを軽々と補っていた時代だったのだと思う。

 

 

漱石の「地域通貨」

昔、少年向けの文学全集などに、漱石のエッセイ風の小品が入っていて、読んだ記憶がある。あと、旺文社文庫の長編の付録みたいな感じでの収録もあった。

だから、漱石の小品集の標題にはなじみがあったが、その一つである『永日小品』(1909)を読み通すのは初めてだ。想像よりずっとよかった。同じ文庫本に収録されてた有名な『夢十夜』とあわせて読んでも、読後感で負けていない。

まず、文体と書きぶり、その内容の多彩さだ。25個の小品のうち、約三分の一が、実話を題材にしたような身辺雑記。次の三分の一が、掌編と呼べるような短い創作。最後の三分の一が、イギリスの留学時代を中心とした回想もの。これらが順不同に登場するのだから、あきさせない。『吾輩が猫である』を読んでから、僕の中で漱石ブームが続いているのだが、やはり漱石はすごいと今さらながら思う。

たとえば、「金」と題した創作もので、漱石は登場人物にこう語らせる。「金は魔物だね」「これが何にでも変化する。衣服にもなれば、食物にもなる。電車にもなれば宿屋にもなる」「・・・あまり融通が利き過ぎるよ。もう少し人類が発達すると、金の融通に制限を付けるようになるのは分かり切っているんだがな」「・・・赤い金は赤い区域内だけで適用するようにする。白い金は白い区域内だけで使う事にする。もし領分外へ出ると、瓦の破片同様まるで幅が利かないようにして、融通の制限を付けるのさ」

今で言えば、これは「地域通貨」に通じるような発想だ。時代や社会の本質を見通す漱石の視力に感嘆する。

 

 

『「吾輩は猫である」殺人事件』 奥泉光 1996

石の『猫』を読了したので、以前からもっていた奥泉光のこの本を手にとってみる。奥泉光は好きな作家で、彼の小説は読まないまでもかなり集めてある。長いものが多く、たくさんの知識を背景に周到に構築された複雑な筋立ての作品が多いから、読めば面白いのは分かっているが、なかなか手が出せないのだ。

漱石の『猫』のキャラクターが活躍し『猫』の様々な記述が引用されているから、『猫』が好きな読者は間違いなく楽しめる。漱石の『夢十夜』がかなり重要なモチーフになっているのも興味深い。

ただ、たんなる続編ではなく、物語の冒頭から舞台は突然上海へと移り、当地の個性的な猫たちが苦沙弥先生殺人事件について推理合戦を行うという展開は、意表を突いたものだ。犯罪集団のメンバーとして登場する苦沙弥の知友たちは、なんだか原作『猫』の中での人物たちとは思えない。やがて猫をめぐるオカルト科学が語られて、物語の時空がゆがんでいく展開は、まさに奥泉ワールド。

読了度、見事に『猫』を活かしきった作品だとうならされる。時空を超えたストーリーの果てに最後に残るのは、やはり漱石の書いたテクストであり、それを読むことから全てが繰り返し始まるというオチ(と受け取ったが)もよかった。小説の面白さを堪能。

 

「奇天烈」林間散歩

今の職場の前には大きな都市公園があり、アスファルトの周遊路がめぐっている。昼休みにそこをジョギングしたり散歩したりする人もいる。

しかし、その道は日差しがきついし、通勤時にその一部を歩いているから面白みがない。だから僕は、周遊路の内側の芝生や林や築山の木陰を縫うようにして歩くことに決めている。

よく整備された林の中は風が通り抜けて気持ちが良い。枯葉やドングリや木の根を踏んで歩くのも、アスファルトよりは膝にもいいだろうし、足裏に微妙な凸凹や傾斜を感じながら歩くと、五感が解放されるような気がする。

都市公園の鳥たちは人間になれているし、林の中を低く飛びかう姿は、街中で見ることはできない。最近、スズメバチに出くわすことが多くなったが、縞模様の太い胴体が不意に目の前に出現したときには思わず緊張が走る。

実は10年以上前に今の職場で働いているときも、昼休みの気分転換で、この林間歩きを編み出していた。ただ当時はまだ若かったから、小走りで身体を鍛えたりしていたけれども。

それで今回も得意になって、すでに一か月以上この散歩を続けている。ところが今日、あることに気づいて愕然とした。今の職場には数千人の勤務者がいるだろう。昼休みに都市公園に出てくる人も多い。しかし、この一か月、明らかに僕と同じ林間歩きをしていると思われる人に出会ったことがないのだ。

林内にも小道がついているし、立ち入り禁止の場所ではないから、ルール違反をしているわけではない。しかしおそらくたいていの人にとって、想像外の振舞いなのだろう。これもまた、奇想・奇天烈たるゆえんか。

 

奇想・奇天烈男

「奇想奇天烈・きそうきてれつ」という言葉はない。奇想天外(思いもよらない奇抜なこと)と奇妙奇天烈(ひどく変わっていて不思議なこと)とが混ざった造語だろう。

最近、妻から、あなたは奇想奇天烈だと指摘される。

意外だった。おかしいといえば、もともとおかしかった。それを今になって言われるとは。しかも、定年になって、そうなったのだと言われる。いや、職場が変わっても、以前より一生懸命に働いているし、自分としては特に変わった部分はないように思う。

妻によると、責任が軽くなった分、おかしな中身が出だしたのだという。

これはそうかもしれない。軽いウォーキングシューズにリュックという軽装での通勤は本当に快適だ。マイペースで仕事を仕上げ、周囲より早く職場を出られる。生活の中で、自分らしさの比重がだいぶ上がっているのだろう。

今日も駅からいつもとはまったく違う道をあるいて帰宅する。複雑な地形と街並みは、わが大井川歩きの舞台だけあって、あきさせない。ただ、ゆっくり本でもよめるカフェみたいな場所がないのが玉にキズだと思う。

ふと、途中の児童公園に寄って、ベンチに座る。ここは子供たちに自転車の練習をさせた場所だ。今の季節なら、虫を気にせず休むことができる。そこでしばらく文庫本を広げてみた。帰宅途中に児童公園で本を読むなんて、おそらく生まれて初めてだ。

ちょっとしたことだけど、こんなところが奇想・奇天烈たるゆえんなのだろう。

 

小劇場で芝居を観る

コロナ禍のせいで、しばらく芝居を観ていなかった。

来月に、知人の主宰する企画で、ダンスを読むというイベントに参加することになった。複数のダンサーによるコンテンポラリーダンスのパフォーマンスに対して言葉による解釈で介入していくという試みになるらしい。

ちょうど自分のこれからの生き方で、身体というものを軸にしたいと考えていたところだったので、よい刺激になるとおもった。ただし、それまでに自分の貧しい身体的な教養をおさらいしておかないと、とても太刀打ちできないだろう。

そもそも他人の身体への直面になれる必要がある。それで、比較的若い劇団(結成10年という)の芝居をお金をはらってみたのだが、観劇中、アンケート用紙が悪口のオンパレードになるくらいのひどい作品だった。

芝居をつくり成立させることの苦労を多少は知っているので、そんな非情なアンケートは渡さずに劇場をあとにした。こんなブログでも実名をあげて劇評を書くのも忍びない。かといって、自分が感じたもやもやをこのままにしておくわけにもいかない。以下、思いつくままに毒を吐くことにしよう。

劇場に入ると、何もない舞台の真ん中に「平台」を何個も並べているスタッフがいる。舞台装置といえばこの平台とフェンスの一部みたいなものだけで、結局芝居中はこの上が公園ということになり、最後には役者たちがこの「平台」を片付ける。

この意味がまったくわからない。別にこの平台がなくても、この場を公園に見せることはできるし、芝居中この平台には公園以外の意味は何も付与されない。それほど無意味な平台を、公演の前後で意味ありげに組み立てたり、バラしたりされても。

あるいは、舞台の右奥の暗がりには音響や照明のスタッフみたいな人がテーブルについているのだが、ほとんど存在感がない。舞台の両脇には、椅子が並び、出番のない役者はそこに座っていたり、近くのハンガーラックから衣裳をとったりしている。

また、舞台の壁面に芝居のト書きの一部が映されて、それを読み上げるナレーションに従って、役者がぎこちなく身体を動かしたりする。ナレーションの声色による効果音もあったりする。

これらはすべて、どこか新しい演劇風であり、作り手の側は何かの効果を狙っているのかもしれないが、まるで面白くない。こうした手法は、芝居が超越的な物語の世界へと還元されてしまうことに対抗して、現に目の前にある事態に視線を引きもどすための手段としてあるときに効果を示す。

下手なコントのような魅力の無い舞台は、そこに虚構の世界を立ち上げていない。できそこないの芝居もどきにすぎないのだ。にもかかわらず、これは実際は芝居なんですという種明かしをくどいほどされても、そんなことは見ればわかるとシラケるばかりだ。

登場人物たちは、見え透いた勘違いをくりかえし、普通なら勘違いに気づくようなところでも、芝居を成立させるためだけに、その場にい続けて、無意味な言葉を並べ続ける。肝心のストーリーの方も、旦那の浮気相手を調査している人妻が、旦那の交際相手の「男」を刺したり、薬の売人と薬中と探偵のからんだりなど、何のリアリティも感じさせないドタバタである。

気の毒なのは、役者たちで、ト書きによるコントロール(芝居であることの強調)という制約から、どうしても棒読みと棒立ちの演技にならざるをえず、おそらく力量以下の舞台を余儀なくされているのだろう。

 

 

『熟語公式で訳す英文解釈問題集2』 篠崎書林 1993

高校の英語の授業は、当時、リーダー(読解)とグラマー(文法)とコンポ(作文)に分かれていた。といっても、みんなでそう言い慣わしていたからそう呼んでいただけで、授業の中身がきちんとその言葉通りに切り分けられていたわけではない。

教科書は指定されていたが、授業ではあまり使わず、プリントや副読本の問題集のほうをよく使っていたのも、教科の区分があいまいになる原因だった。その頃の都立の平凡な進学校だった母校は、学校の姿勢としても教員の仕事ぶりもそれほど熱心でも意欲的でもなかった。

たしかナンバ先生のリーダーだったと思うけれど、うすい英文読解の問題集を使っていた。構文の例文と解説のあとに問題が三つほど。以前は主流だった英文解釈の参考書のスタイルだけれども、当然ながら解答はない。基本編の問題集が終わると、次には、問題文の難解になった問題集がまっていた。どこかの原典から抜き出した一文は、文脈なしに突拍子もない内容だったりして、予習の訳文づくりに苦労した記憶がある。

高校の授業で使った二冊の問題集は紛失してしまったが、卒業後10年以上経ってから、書店でそれとそっくりな問題集を見つけたので、喜んで購入した。これは販売用に模範解答もついているし、きれいなカバーもついているが、中身はまちがいなく同じだろう。

それから20年。やさしい方の問題集は、カバンの中でペットボトルのお茶をこぼしてダメにしてしまった。間抜けな僕らしい。

残った難しい方の一冊を、気分も新たに通勤電車の中で通読する。旧式の勉強法だから、たいして役に立たないかもしれない。でも、もう効果とか効率とかはあまり関係ない。たんなるノスタルジーとしても、やりたいことをやるだけだ。

 

 

 

『哲学入門一歩前』 廣松渉 1988

今年の廣松さんの忌日(5月22日)には、この本を手に取る。巻末のメモだと、出版年とその翌年に読んで以来の33年ぶりの読了となる。しかし若いころに読んだ本のためか、その内容はよく頭に残っていた。

廣松さんの四肢的構造論の骨組みは、説明する漢語は難しくても、簡明で分かりやすい。しかし、この本は、その構想のよってきたるところを、しつこく丁寧にほじくり返すという趣の本なので、普通の入門書よりとっつきにくい。

ただし専門書ではスルーしてしまうようなところの解説は、目からウロコが落ちる気持ちになる部分がある。初読の時から印象深いのは次のところ。

ヨーロッパの近代哲学の伝統では、意識といえば、自己意識(「意識しているということ」についての意識)を第一に置き、対象意識を第二次に置く傾向がある。しかし、日本人の常識では、熱中して(我を忘れて)映画を観ている状態でも「意識」状態に入れるように、対象意識こそを第一次的にとらえる。はっと我に返って、今映画を観ていると気づくような意識(自己意識)を第一次的なものとはみなさない。

廣松は、だから近代哲学の克服を目指す現象学が、意識の志向性(意識は何かについての意識である)を主張しても、日本人には今さらに感じられるのだと教えてくれる。

こういう知識は、実際に哲学を専門に学ぶ現場では議論になるのかもしれないが、書物で哲学を学ぶような場面では知ることができない。33年前の僕には、なるほどと納得できることだった。

今回は、判断というものの基礎を解説する部分で新たな発見があった。日本語と英語とでは相手の主張に対する肯定と否定(イエスとノー)の使い方が違うことはよく言われる。この本では、廣松は、独自の哲学への導入として、この問題を少し丁寧に解説しているのだが、概略を言えば、日本人は、誰かの主張に対して直接その当否を判断するのに対して、西欧人の思考では、相手の主張に含まれる「中性的」な命題をいったん取り出して、それに肯定否定の判断を加えるという仕組みになっている。

廣松の議論は、だから西欧流の考え方が、言説や主張を独立のものとしてとらえてそれが誰かの主張であるという実態を隠してしまう傾向をもつという方向に進むのだが、僕が気づいたのは別のことだ。

日本人は議論が下手で、自分の主張に対する否定を自分の存在に対する否定ととらえてしまうとはよく言われることだし、体験的に僕もそう感じて来た。だから公的な議論の場では、相手の主張を否定しないというルールが設けられたりもする。

しかし、これは、日本人の感覚や性癖というより、もっと根深い言語のルールに基づいているということに気づかされたのだ。あまりにもストレートにつながる部分だから、すでに多くの人によって言われていることだろうけれども、僕にとっては新鮮な「発見」となった。