大井川通信

大井川あたりの事ども

『哲学入門一歩前』 廣松渉 1988

今年の廣松さんの忌日(5月22日)には、この本を手に取る。巻末のメモだと、出版年とその翌年に読んで以来の33年ぶりの読了となる。しかし若いころに読んだ本のためか、その内容はよく頭に残っていた。

廣松さんの四肢的構造論の骨組みは、説明する漢語は難しくても、簡明で分かりやすい。しかし、この本は、その構想のよってきたるところを、しつこく丁寧にほじくり返すという趣の本なので、普通の入門書よりとっつきにくい。

ただし専門書ではスルーしてしまうようなところの解説は、目からウロコが落ちる気持ちになる部分がある。初読の時から印象深いのは次のところ。

ヨーロッパの近代哲学の伝統では、意識といえば、自己意識(「意識しているということ」についての意識)を第一に置き、対象意識を第二次に置く傾向がある。しかし、日本人の常識では、熱中して(我を忘れて)映画を観ている状態でも「意識」状態に入れるように、対象意識こそを第一次的にとらえる。はっと我に返って、今映画を観ていると気づくような意識(自己意識)を第一次的なものとはみなさない。

廣松は、だから近代哲学の克服を目指す現象学が、意識の志向性(意識は何かについての意識である)を主張しても、日本人には今さらに感じられるのだと教えてくれる。

こういう知識は、実際に哲学を専門に学ぶ現場では議論になるのかもしれないが、書物で哲学を学ぶような場面では知ることができない。33年前の僕には、なるほどと納得できることだった。

今回は、判断というものの基礎を解説する部分で新たな発見があった。日本語と英語とでは相手の主張に対する肯定と否定(イエスとノー)の使い方が違うことはよく言われる。この本では、廣松は、独自の哲学への導入として、この問題を少し丁寧に解説しているのだが、概略を言えば、日本人は、誰かの主張に対して直接その当否を判断するのに対して、西欧人の思考では、相手の主張に含まれる「中性的」な命題をいったん取り出して、それに肯定否定の判断を加えるという仕組みになっている。

廣松の議論は、だから西欧流の考え方が、言説や主張を独立のものとしてとらえてそれが誰かの主張であるという実態を隠してしまう傾向をもつという方向に進むのだが、僕が気づいたのは別のことだ。

日本人は議論が下手で、自分の主張に対する否定を自分の存在に対する否定ととらえてしまうとはよく言われることだし、体験的に僕もそう感じて来た。だから公的な議論の場では、相手の主張を否定しないというルールが設けられたりもする。

しかし、これは、日本人の感覚や性癖というより、もっと根深い言語のルールに基づいているということに気づかされたのだ。あまりにもストレートにつながる部分だから、すでに多くの人によって言われていることだろうけれども、僕にとっては新鮮な「発見」となった。