大井川通信

大井川あたりの事ども

燐寸(マッチ)の大冒険

読書会の課題図書で、ウェルズ(1866-1946)のSFの古典『タイムマシン』(1895)を読む。

タイムマシンを発明した主人公は、80万年後の世界へ行くが、そこは、地上に遊ぶ穏やかなイーロイ人と、地底で生産活動に従事する恐ろしいモーロック人という二種族が住む、文明の衰退した世界だった。モーロック人は、地底で生活しているため、光に弱い。夜になると地上に這い出してきて、イーロイ人を襲う。彼らにタイムマシンを奪われた主人公は、イーロイ人の娘の協力を得て、モーロック人と戦う。

その時、未来世界で唯一の武器として大活躍するのが、マッチなのだ。モーロック人はマッチの火に退散する。「こうなったら、マッチだ」という主人公のセリフは、必殺の武器がマッチなだけに、おかしみをさそう。手持ちのマッチが切れると、旧博物館の展示室で、都合よく新たなマッチ箱を手に入れるという展開もすごい。

なぜこんなにも、マッチが重宝なのか。よく読むと、この未来社会には全く照明がないのだ。なんと太陽と月の明かりだけで生活している。いくら文明が衰退したからといって、照明装置がないなんてありうるのか? ここで、照明の歴史について、ふりかえってみよう。

1827年 マッチの発明(19世紀後半、自然発火と毒性の危険のある「黄燐マッチ」に替わり、頭薬と側薬をこする「安全マッチ」が実用化される)
・1879年 白熱電球エジソンによる実用化
・1896年 乾電池の発明(1899年懐中電灯の発明)

この小説が出版された1895年には、ロウソクやランプ以外の照明装置は、まだまだ最新のハイテクだったことがわかる。懐中電灯もまだ存在していない。ひょっとすると、安全マッチは、今でいうと携帯やスマホ並みの最新の工業製品のイメージをまとっていたのかもしれない。ちなみに当時、スウェーデンアメリカ、日本がマッチの世界三大生産国で、日本が競争力をもつ数少ない工業製品だったそうだ。

文明の衰退した未来社会で照明が失われているのも、そこでマッチが大活躍するのも、作品の生まれた時代のリアリティに深く根差したものだったのだ。