大井川通信

大井川あたりの事ども

作文的思考と同和問題(その2)

イデオロギー批判とか、自己欺瞞の指摘とか、抽象的に言ってもわかりにくいだろう。具体的にはこういうことだ。

大学生の僕は、差別ということの大元が、「ひとくくり」であることに気づいた。ひとくくりにしてしまうから、どんな切り捨ても不当な扱いも可能になってしまう。ひとくくりにしてしまうと、見ているようで、ひとりひとりの「顔」を見逃してしまうし、ひとりひとりに「名前」があることにも気づかない。

しかし、人間のあらゆる振る舞いのなかには「ひとくくり」がひそんでいる。そもそも言葉というものが、物事をひとくくりにすることによって成り立つものだ。だから、差別に反対する人間であることの最低条件は、「ひとくくり」の暴力とそれにともなう痛みに自覚的であることだ、と僕は考えた。

ところが、しにせの差別反対運動の現場では、あたりまえのように「ひとくくり」が横行していた。被差別当事者という「ひとくくり」の利益となるためであれば、「差別者」とか「行政」とか「管理職」とかいうレッテル張りが、何の痛みの意識も伴わずに行われているように見えたのだ。

だから、僕は、自分にできる範囲で、その一つ一つを指摘して回ったのだ。さらにさかのぼって、その「ひとくくり」を可能にするイデオロギーの構造を分析し、そこから距離をおくことが大切であることを訴えた。

そういう作業が批評であり、作文の使命であると本気で考えていたのだ。

今読んでもその時の文章は間違ったことは言っていないし、それが批評の仕事であることも確かだろう。でも、作文の本領は、そういうところにはないと今では思っている。

世の中には、様々な事実が語られることなく眠っている。作文は、その一つ一つに言葉を与え、肯定する作業なのだ。批判の袋小路にはまっていてはもったいない。