大井川通信

大井川あたりの事ども

『月』(辺見庸 2018)を読む・続き

前回、この小説が、言葉をもたない重度の障害者の存在に肉薄するものでないことを指摘した。そのために、この小説においては、意識や人格の有無が単純な二分法でとらえられていて、それは「さとくん」の殺人の論理と少しも変わっていないのだ。

著者の無自覚が現れてしまっているのが、小説の舞台となる施設で、重度の障害者とともに、老教授である痴呆老人とが一緒に入所しているという無理な設定だ。しかも、「さとくん」が施設の利用者に殺意を抱くのは、痴呆老人の乱行を見たことがきっかけになっているというのも、かなり不可解だ。「さとくん」の論理では、「意識のある」痴呆老人は殺戮の対象とはならないはずだ。

著者にとっては、正常な人格や意識をもたないという意味で痴呆老人も重度の障害者もひとくくりになってしまうのかもしれない。しかし、痴呆は、僕たちの誰もが晩年の一定期間しなければいけない経験だ。それどころか日常生活を子細にながめれば、意識や人格の一貫性や連続性はたやすく破られてもいる。

強者と弱者、持てる者と持たざる者、健常者と障害者という二分法をいったん認めてしまえば、後者が社会の重荷や負担であるという「本音」の論理と、あくまで後者の立場に立とうとする「倫理」の立場とが必ず出てきて対立する。

この本で描かれた「さとくん」のように、後者から前者の転換は、政治的思考の転向のように容易に起こってしまう。小説の言葉は、この偽りの対立によって覆い隠された現実の地肌にしっかり食い込むものであってほしい。