大井川通信

大井川あたりの事ども

目羅博士vs.美学者迷亭

漱石の『吾輩は猫である』を読んでいたら、美学者の迷亭が、こんなエピソードを話している場面があった。

散歩中、心細い気持ちになって、ふと気づくと、「首掛けの松」の下に来ていた。昔からの言い伝えで、この松のところにくると誰でも首をくくりたくなるという。実際、年に数人はここで自殺しているそうだ。

「ああ好い枝振りだ。あのままにして置くのは惜しいものだ。どうかしてあそこの所に人間を下げて見たい。誰か来ないかしらと、四辺を見渡すと生憎誰も来ない。仕方がない、自分で下がろうかしらん」

こうして、その晩(もしかしたら月が出ていたかもしれない)迷亭はあやうく自ら首をくくりそうになってしまったのだという。

江戸川乱歩が描く目羅博士は、都会の街並みの幾何学的な相似形という環境と、月光の魔力とを背景に、人間の模倣欲望を利用した犯罪を企てる。そのためには、ダミーの人形による実際の首つりを演出する必要があった。

一方、迷亭の場合は、首くくりの松という伝承と過去の首つり事件の目撃情報が無意識に作用して、そこに幻想の首つり死体を思い描いてしまい、そのイメージを模倣したくなったのだろう。この場合、何の仕掛けも必要ないという点で優れているが、そもそもここには犯人がいないのだ。

迷亭のこのエピソードに刺激されて、雑談相手の東風と苦沙弥は、それぞれ自分が体験した「神秘的な」エピソードを負けじと語り出す。ここにも人間の模倣欲望は働いているわけで、つくづく人間は模倣に取りつかれた動物なのだと思う。