大井川通信

大井川あたりの事ども

『田宮虎彦作品集 第5巻』を読む

ネットオークションで、状態のいい作品集全6巻を安価で手にいれたものの、今までの僕ならそのまま書庫にお蔵入りになってしまうところだ。いつか読むというのが言い訳だったけれど、人生のタイムリミットが見えてきた感のある今では、それは通用しない。

幸い、作品集一巻のボリュームは、せいぜい文庫本一冊程度しかなく手ごろだ。たまたま手に取った巻から読み切ることにした。

第5巻は、明治大正昭和と続く日本の近代を生ききった人物の生涯を描く作品を集めたもの。やはり肌の合う作家なのだろう。通勤の電車で読んでいたら、一駅乗り過ごしてしまった。

短編で一人の人間の半生を描き切るのだから、展開がはやい。人生の要所の象徴的なエピソードをつなげる手法をとるのだが、そのエピソードの選択と描写が的確だから、拙速だったり不自然な感じがせずに、本当に生きている人間を描いているように思える。

時代と人間関係に翻弄された相当に不幸な話だから、僕のような気が小さくて感傷的な人間には読むのがつらくなるところだが、この展開の速さが救いになる。

『梅花抄』(1951)は、江戸時代以来の格式ある旅館「なぎさ屋」とその梅林の盛衰を、切り盛りする辰枝の生涯とともに描いている。出生に秘密のある辰枝は遊び癖のある夫に苦しめられるが、娘たちも女癖の悪い下宿人の教師に蹂躙される。女たちはあくまで受け身で、非情の男が物語の中で罰せられないことには、やや不満が残る。

土佐日記』(1949)は、土佐の名家「巣山屋敷」の盛衰を描く。女当主登米子は妾の子であるという秘密があり、小作出身の負い目のある養子の夫の横暴と女遊びに苦しめられて、夫が愛情を与えることのなかった二人の息子にも先立たれる。名家の財産を使いつくした夫の死後、息子の愛人を引き取り、貧しい人に心を寄せたり、屋敷の門前での遍路への接待を復活したりする老いた登米子の姿には、救いがある。

『江上の一族』(1947)は、儒家で医者を務める江上家の歴史を、嫁の澄江の視点で描いている。主人公は次男の博介で、勉強はできなくとも人が良く、女たちから可愛がられることで放蕩や家出を繰り返してしまう。家に戻ることなく博介は戦死するが、最後まで実家を誇りに思っており、母親はもちろん父親の視線も冷たくはない。この巻の中で、魅力ある男子のキャラクターは貴重だ。

『山川草木』(1941)は、山奥の秘湯が舞台。湯の番人のかたわら、木こりや炭焼きをする三造の生涯を描く。自分の嫁を置いたまま山を下りた長男は、温泉が繁盛しだすと戻ってきて経営拡大に乗り出す。この話では、父子関係の不幸は、父親の問題ではなく、愛情が薄く自分勝手な息子の問題として描かれている。

『三界』(1948)は、戦後大陸から引き揚げてきた親族の物語を、陸軍少尉の未亡人であるつうの視点から描く。狭い屋敷の中で、引揚者の兄弟たちはすさんでいき、家族同士のいさかいがやむことはない。一人娘も派手な暮らしと外泊が続いており、つうは愚痴るしかない。

『異母兄弟』(1949)は、容貌魁偉で傲慢な軍人の後妻に入った利江が、夫だけでなく先妻の子二人からも、自分が生んだ兄弟の二人とともに徹底して差別され虐げられるむごい話。戦争で先妻の子二人は戦死し、夫も呆けてしまった後に、利江のもとに戦地の収容所での兄の生存の知らせが届き、出奔していた愛すべき弟が戻ってくるというラストにかろうじて救いがある。

主人公は、総じてかなり経済的社会的に恵まれた身分の女性であるが、家庭内のポジションと時代の流れの中で、しいたげられ打ちひしがれる。女性目線が多いためか、男たち、とくに父親という存在は、酷薄で自分本位の人間として描かれるようだ。

土佐日記』と『江上の一族』が特に良いと思えたのは、暗い中にもかすかに希望が感じられるからか。