僕が金光教にひかれたのは、その教会の雰囲気と教会の先生方の佇まいによるところが大きい。およそ宗教らしくないし、宗教がかっても、宗教じみてもいない。では単に世俗的なのかというとそんなことはない。金光教らしい空気で満たされているし、金光教らしい筋が通っている。
では、その金光教らしさ、とは何なのか。
僕は、その正体は「取次」という関係の中にあると気づくようになった。教祖金光大神の行った取次を、本部広前では今の教団のトップである金光様がまったく同じように毎日早朝から夕方まで行っており、全国の教会では教会長たちが実施している。
だから僕も、アポをとったり、身分や資格を改められたりすることなく、不意に訪れた教会で、井手先生や野中先生に歓待され、お話をすることができた。本部広前の金光様も事情は同じで、その場で取次をお願いすることができた。
哲学思想の世界では、無条件の歓待がいかに可能なのかという問いが哲学者のテクストを読むことを通じて語られている。しかし、金光教の広前において、それが現に行われていることにこそ驚くべきではないのか。借り物の思想ではなく、自前の思考はそこからしか立ち上がらないだろう。
宗教団体に限らずあらゆる組織が、仮に他者への愛や慈悲や人間平等をうたい文句にしているとしても、任意に訪れた来訪者に対しては、窓口メンバーが対応しメンバーの末席に遇するのがせいぜいのところだろう。団体のトップが専任で日々対応し、一対一で話を聞いてくれるという組織が、金光教以外どこにあるというのか。
これは表面的な思想や信条の問題ではない。信仰の根本のところに他者を歓待する装置が組み込まれていないとできることではないと思う。
おそらく、これが取次の「三者関係」だろう。取次は、神と取次者と氏子という三者が存在しないと成立しない。神と取次者と氏子とは、取次における等しく根源的な要素なのだ。取次者にとって神が不可欠なのと同じように「難儀な氏子」の存在も不可欠なのであり、その位置どりにおいて神と同格だと考えることができるだろう。
あらゆる存在に仏性があり、すべての人が神になる、一人の人間の命は地球より重い、などと言うことだけならたやすい。しかし、これを他者へのふるまいの原理とするためには、特別なロジックに基づく態度と覚悟が必要だ。
僕が参拝に訪れた本部広前において、金光様は、特別に神秘的だったり権威的だったりする様子を見せずに、僕の話と願いを聞いてくださった。そもそもシンプルなつくりの明るい広前の空間自体が、清浄な気に満ちてはいるものの、権威的でも神秘的でもない。権威を振りかざしたり神秘を匂わしたりしては他者を受け入れて歓待することはできないだろう。
その時はさすがに緊張してよくわからなかったが、あとから振り返ってみると、まるで自分自身が「来訪神」のようにもてなされていたような気もする。そう感じさせるものが金光教には確かにあるのだ。